第二話 芽生えの章 誕生

2013年4月29日起
 

1918年(大正7年) 1月25日
アメリカ合衆国カリフォルニア州サクラメント市第4街1418番にて、
若山繁二・照尾の長男として生まれる。
この時、国籍はアメリカであった。




お七夜の記念撮影
祖母照尾に抱かれているのが父繁雄




お気に入りの手作りブランコ
 

帰国前の記念撮影

1917年頃のサクラメント近隣の人々


ポ-ランドの家をバックに

近隣の人々

近隣の人々

マントビ-ルにて

左より 竹本夫人・伊藤夫人・シヅコ嬢・照尾・繁雄

 「サクラメントの家の隣に住んでいた伊藤()きさんは、わしと同じ位の年頃の赤ん坊がいたので6ヶ月間程助け合いながら暮らしていたんだそうだ。その後、引っ越しされたそうだが、おっかさまは帰国してからも手紙のやり取をしていて、わしが梓の家に行った時にバークレーの志きさんのお宅にお邪魔して、大歓迎を受けたんだよ。」
 姉の梓は1964年に柴田家に嫁いだが、1978年義兄の柴田耕作のニュ-ヨ-ク赴任で以後6年間ニュ-ヨ-ク郊外で暮らした。父母と祖母(石岡志ず)は1982年7月30日から8月20日まで姉の家を訪れて、8月11日から姉一家とアメリカ横断の旅をしたが、その時志きさんのお宅を訪問した。64年振りの再会であった。
 
「志きさんは、わしと会うなり『繁二さんにそっくりになられた繁雄さんを見て、すぐに誰だか分かりましたよ』と言われて、固い握手を交わしたんだ。そして、作ってくれた寿司は、見越のおっかさまが作った寿司と同じ味がしたよ。」
 祖母照尾は押し寿司を作る名人であった。見越の家の近くの川で<もろこ>と言う小魚を捕まえて、「なまんだぶ、なまんだぶ…」と唱えながら、生きたままのピチピチ跳ねるのを煮て<もろこの押し寿司>を作っては食べさせてくれたことを思い出す。


1982年8月16日
バークレー在住の伊藤志きさん宅訪問


この時、父は初めての海外旅行でありパスポ-トを取ったが、
なかなか交付されなかった。
何と!未だに二重国籍であった。
この時は日本人として、渡米が許された。



伊藤志きさんの家の前の通り

左より母(54歳)・志きさん(86歳)・
父(64歳)

いただいた写真を手に




志きさんの息子さんたちと共に
テ-ブルを囲んで

伊藤家の日本庭園

記念撮影



 志きさんは、持っていた当時のアルバムを見せてくれてね。『64年前、あなたと別れた時にあなたを撮った写真があります。それを記念に差し上げます。』と言って、アルバムからはがしてくれたんだよ。」

 
その写真が上の腹当てをしている父の写真である。
 父の一家は、1920年帰国の途に付いたが、志きさんご一家は、その後もサクラメントに残り、第二次世界大戦前後の過酷な時を過ごされている。その辺りの状況を前章の愛西市の説明文から、もう少し詳しく転記してみよう。

 20世紀に入り、排日運動の展開、日米関係の悪化等の要因により、日本からの移民は差別を受け、苦境にあったといえよう。
 日米関係の悪化に伴い、日本へ帰還するものもあれば、そのままアメリカへ留まるものあり、各々の選択に委ねられていた。
とりわけ日米が開戦にいたるや、敵性外国人としてカリフォルニア在住の日本からの移民は強制収用された。わずかな手荷物をもち、行く先が判らないよう目隠しをされ、バスに乗せられ連行されていったという。数名からこの強制収用での体験の話をうかがったことがある。薄い壁で仕切られた狭い部屋での生活は快適ではなかったことは想像するにかたくない。それよりも、彼らが口をそろえていったのは、何もすることがなかったことが苦痛だったということ。日本人の勤勉性をうかがい知ることが出来よう。
2世の中には米軍に徴兵されたものもあった。彼らは日本との戦いをさけ、ヨーロッパの戦線に出征したという。あの有名な442部隊に多くの2世が参加したことは(つと)にしられている。
 戦争が終わり、強制収用から戻っても、かつて居住していた家はなく、文字通りゼロからの再スタートであった。
 多くの苦境を乗り越えてきた彼らの生活はまさに苦労の連続であったに違いない。

 「志きさんの、戦前・戦後の敵地での生活はどんなに大変だったか、はかり知れないが、今は裕福な暮らしをされて86歳とは思えない元気さだったよ。」
 この後、アメリカ横断の旅を終えて、金門橋を渡ってサンフランシスコに入った。


サンフランシスコから日本へ


サンフランシスコから日本に向う船

甲板を散歩する父と祖母

乗船する人々

 「90年程前、おとっさまはサンフランシスコの港から妻を娶るために日本に帰り、新妻のおっかさまを連れてふたたびサンフランシスコに上陸して、3年後、2歳半のわしと3人でまたサンフランシスコから長い船旅の末、日本に帰ったんだ。
このアメリカ横断の旅の終わりにサンフランシスコの町に入り、その昔、両親もわしを抱いてこの町を歩いたのかと思うと、車窓から眺める景色もジ-ンと胸に迫るものがあったよ」

 父はもちろんその頃の記憶はない。しかし、遠い昔の父母の姿を追い求めるように語る父の姿はとても印象的だった。
 若山由利子さんからいただいたアルバムの写真は貴重な物が多く、できればここでそれらの写真の全てを掲載したかったが、一部分だけになってしまった。興味のあられる方は、是非、名古屋大学大学文書資料室にお問い合わせいただき、閲覧していただければ幸いである。

 さて、帰国して郷里見越へ帰った若山家のその後は…

 


第三話 若葉の章

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