2022年の石岡繁雄関係の報道と
除幕式関係の報道



7月20日

NHKラジオ第一放送の高橋亜矢ディレクターからお電話がありました。
「石岡繁雄様の著書『屏風岩登攀記』の一部分を朗読したいのでご許可をお願いします」とのことでした。
NHKラジオが『屏風岩登攀記』を朗読してくださるのは二度目になります。
1度目は東海地方版でしたが、今回は全国ネットです。
番組は「山カフェ」で、「マスタ-の本箱」と言うところで読まれました。
以下は「山カフェ」に関するネット公開の情報です。



<石丸謙二郎の山カフェ>

山の日だまりで、朝日に輝く山々や森をながめつつ、 コーヒーをいれてほっと一息・・・。 そんなひとときをイメージしたラジオ番組が、「山カフェ」です。
カフェのマスターをつとめるのは、長く登山を趣味とし、山を愛してやまない石丸謙二郎。
山や自然にかかわる多彩な方々をお客さまに迎え、飾らないトークを楽しみます。
山小屋や今まさに山に登っている方々と電話をつなぐ「山からおはよう」や、古今東西の山岳図書を紹介する「マスターの本棚」などのコーナーも。
皆さんからの、心に残る山のエピソード、とっておきの写真も大募集しています。土曜の朝、いっしょに山に想いをはせてみませんか?

MC石丸 謙二郎・アナウンサー山本 志保

放送時間:毎週土曜日8:05~9:55



9月9日

放送までに高橋氏から何度もメ-ルをいただきました。
この日は、放送内容についてお知らせいただきましたので、以下必要部分転記いたします。



明日は、「憧れの槍・穂高連峰」というテーマで、皆さんからの槍・穂高の思い出のお便りや、 石丸謙二郎さんの槍ヶ岳登山の様子の「音」でのレポートなどを お届けする予定です。
「屏風岩登攀記」は、8時半から、4分半ほどの朗読時間となります。
収録の際、石丸さんが思い入れたっぷりの朗読をして下さり、 当時お若かった石岡繁雄さんの実年齢よりも随分、「貫禄」が出てしまいましたが… でも緊迫した様子が伝わるのではないかと思います。
登山雑誌と違い、通常のNHKラジオで山に詳しくない方も多く聞いてらっしゃる番組なので、 今回は、穂高の登攀史や山岳会の活動まで詳細にはお伝えできないのは残念ですけれども、 短い時間で、石岡繁雄さんの偉業に興味をもって頂けるよう、わかりやすくお伝えできればと思っております。



9月10日

何度も放送日が変更になり、放送されたのは除幕式の前日でした。

8:30からはじまった『屏風岩登攀記』はクライマックスの父が頂上を前にして登れなくなり、若い二人(松田武雄氏と本田善郎氏)を先に帰すくだりのところでした。
石丸氏の感情のこもった朗読は、とても迫力がありました。
お聞きになった方もいらっしゃるかと思います。
放送後、私の旧友の何人かから「聞いたよ!」と嬉しい便りがありました。
評判は上々でしたが「もっと沢山読んでくだされば良かったのに」と思う私でした(^-^;


8月2日

信濃毎日新聞社の渡辺麻友記者からお電話があり、『屏風岩登攀記』の中に掲載されている<戦争と釜トンネル>と言う文章について問合せがありました。
「今回、お父様が工場疎開についてご証言いただいた、ロケット型戦闘機『秋水』につきまして、上高地のある松本市の松商学園(当時は明道工業学校)高校敷地内に、実験場が疎開された史実がございます。釜トンネルの件も、こちらに関連がある可能性があり、調べております。もし、文献の他、お父様からお聞きになっている証言があれば、あらためてご連絡をいただければ幸いです」とのことでした。
私は文書資料室に寄託されています父の資料の中から、以下の文を添えてファイルをお送りしました。



釜トンネルと戦争 2022年8月3日 <『屏風岩登攀記』より抜粋解説>

① 釜トンネルへの疎開は、当時最高機密であったため「昭和20年5月15日起 部員会議覚書 第五工場」に場所の記載はない。手帳にも「釜トンネル」と記されてはいないが、当時の「釜トンネル」の地図等調べれば符合するはずである。「釜トンネル」と明記されたのは、終戦後であり、スクラップブックの解説だけである。
② 「釜トンネル」について父から聞いたことは、HPに記載した。その他白金を運んだ事など聞いているが、本に記されたこととほぼ一致する。

 P76最初から7行目中 「さて問題は疎開先である。私は、豊富な電力、低温の冷却水、爆撃に対して安全な場所、六分の一の傾斜と考えているうちに、上高地の入口の釜トンネルに気がついた。これこそまさにうってつけであると思った。」(手帳21・22・23ペ-ジ:釜トンネルの図・トンネル平米メモ有り)

 P77最初から3行目  「決定の翌日、私はA大尉(有田大尉:スクラップブックに写真と説明)といっしょに長野県庁に赴いた。あらかじめ電話で足止めしてもらっていたので、県庁に着くと同時に長官(今の知事)、総務部長、土木部長らにおめにかかることができた。しかし、釜トンネルの中に工場をつくるということがどうしても理解してもらえない。」

 P80最初から2行目  「2,3日中にもボ-リングが開始されようとしている。また、関電と東電の関係者が集まって、梓川沿いの各発電所から釜トンネルまでの電気配線のやり方について具体的な打合せをしているようであった。海軍省、電源関係者、そして私とが、工事完了の目標などの最終打合せを、松本浅間温泉の西石川旅館で行うことになった。
 その日は、私の手帳のメモによれば、昭和20年8月9日であった。湿気の多い暑い日であった。私は、西石川旅館に約束の時間より早く着いた。連日の過労のためか発熱気味であった。私は旅館の女主人に「東京からお客が来る。そのときは起こしてくれ」と頼んでおいて床についた。夢うつつのうちに重苦しい時間が経過し、はっと気がついたとき、約束の時間はとうに過ぎていた。
 私は到着が遅れている原因をあれこれ想像した。この秋水作戦より緊急なものがあるとは考えられない。私は海軍省へ電話した。電話は夜明け近くに通じた。私の名指すS少佐(1981年8月4日朝日新聞記事参照)は電話に出ず、代理の人が出た。
『約束を果たすことができなかったことは申し訳ない。こちらからも電話を申し込んでいた。実は、広島に特殊爆弾が落ちたことはご存知でしょう。そのための調査団が昨夜広島に向かった。S少佐はあなたに会うために松本に向かって出発しようとしていた直前、急に広島への調査団に同行するよう命令された。もちろんS少佐はあなたとの打合せの重要性を知っているので、調査団への参加を渋ったが、命令でやむを得なかった。次の会合の期日は追って知らせます』という説明であった。
 私は、広島の爆弾が秋水作戦よりも大きな意義をもったものであることを知った。もちろんそれが原子爆弾という戦争を左右するような威力を持ったものであるなどということは知る由もなかったが、それでも、底知れぬ暗闇に突き落とされたような不安を覚えた。
 張りつめていた全身の力が抜け、帰りの中央線では、もみくちゃになりながら、私は虚ろであった。燃料廠での上司への報告のときも、私は魂の抜け殻のようであった。仕事が手につかないまま、8月15日、終戦の玉音放送を聞いたのであった。」



手帳


A少佐

スクラップブックに貼られていた「秋水」

1981年8月4日朝日新聞記事



8月15日 (図らずも父の命日でした)

 出来上がった新聞は、一面トップ記事でビックリしました。


 この記事が載ったのは、2017年7月からの上高地展示でお世話になった、自然公園財団上高地支部の支部長加藤銀次郎所長が、釜トンネルへの燃料廠疎開の話に興味を持たれて、信濃毎日新聞にお話しくださったのがキッカケで、とても嬉しく思いました。
 また記事中の柴田一哉氏は、2017年10月にこのホ-ムペ-ジに「海軍第32期技術科士官」の件で書込みをくださいました。そのことをすっかり忘れていて、この記事ではっきりと思い出しました。執筆本の『秋水』も買わせていただきました。5年ぶりにまた繋がったことに縁を感じました。


9月15日

白仁氏が取材してくださったテレビが放送されました



9月17日

中日新聞の地方版に以下の記事が載りました



10月19日

読売新聞地方版記事

もう出していただけないかと思っていましたが、しっかり掲載していただけました。
取材に来られた岩下記者は入院していらっしゃり遅くなったとのことでした

この岩下記者の記事は、適格に内容をまとめられた素晴らしい記事だと嬉しく思いました


9月6日

山と渓谷社編集部の川原田氏から以下のメ-ルが届きました



石岡あづみ様
 
初めまして、山と溪谷編集部の川原田と申します。
このたびは石岡繁雄様石碑と除幕式の資料一式をお送りいただき、ありがとうございます。
弊誌11月号で、ニュースページに記事を掲載させていただければさいわいです。
取材に伺うのは難しく、お手数をおかけしますが以下2点にご協力いただけませんでしょうか。
・石碑の写真、除幕式の写真のご提供
・石岡さまへの電話取材
写真は最終的な掲載は1点の見込みですが、石碑そのものをアップで撮影したもの(お送りいただいた資料に入っているカットなど)と、式典の様子を撮影したもの、2パターン候補を送っていただけると大変ありがたいです。
電話取材については式典終了後、例えば来週のどこかで、20〜30分程度お時間をいただき、 石岡氏の業績や今回の石碑への思いについてお話をうかがえればさいわいです。
取材に伺えずご迷惑おかけしますが、ご検討のほど、 どうぞよろしくお願いいたします。
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株式会社山と溪谷社
山と溪谷編集部  
川原田 喜子(かわはらだ・よしこ)



9月21日 11時~11時40分

電話による取材がありました。
結構長い取材でしたが、直接にお会いする取材とは違い資料をお見せすることも出来ませんので、電話取材は難しいと感じました。

9月30日

川原田氏から原稿が送られて来ました。
「事実誤認などないか、内容を確認して10月3日正午までに連絡してほしい」とのことでした。
1日には3ヵ所訂正を入れた原稿をお送りしました。


10月18日

山と渓谷社の西村氏から以下のメ-ルをいただきました。




石岡あづみさま
 山と溪谷社でYamakei Onlineというウェブメディアを担当しております、西村健と申します。
 先日発売になった雑誌『山と溪谷』の記事の転載についてご連絡を差し上げました。
 お父様の研究所の記念碑の記事をYamakei Onlineにそのまま転載させていただきたいのですが、ご提供いただいた写真についても掲載できればと考えております。
 公開前のページは下記よりご確認いただけます。   ウェブメディアですので雑誌とはまた違った方々に読んでいただけるのではないかと思います。   何卒転載のお許しをいただきますようお願い申し上げます。
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株式会社 山と溪谷社
Yamakei Online部
西村 健 Nishimura Takeshi



もちろん!喜んで承諾いたしました。
載せていただいた内容は以下です。




2022年10月19日(水)

小説『氷壁』の題材となった「ナイロンザイル事件」の検証などで知られる故・石岡繁雄さんが三重県鈴鹿市に設けた研究施設の跡地に、このほど記念碑が建立された。

記念碑(右)と、石岡さんの年譜や業績が刻まれた事績碑(写真提供=石岡あづみ)

記念碑(右)と、石岡さんの年譜や業績が刻まれた事績碑(写真提供=石岡あづみ)

 石岡さんは鈴鹿高専の教授などを歴任。前穂高岳でのザイル切断事故で弟の若山五朗さんを亡くし、自ら実験を繰り返してザイルの岩角欠陥などを指摘。高専を退官後、鈴鹿市内に「石岡高所安全研究所」を設立し、登山用安全装置、高所からの脱出装置などの開発に生涯取り組んだ。
 研究所は遺族が管理していたが老朽化が進み、コロナ禍で見学者も減ったことから解体を決意。歩道に面した場所に記念碑と事績碑を建てた。石岡さんの次女あづみさんは「父の安全登山への思いが、石碑を通して受け継がれてほしい」と話した。
  (山と溪谷2022年11月号より転載)




11月1日発行
『山と渓谷』2022No.1057





  

11月6日

朝日新聞名古屋本社論説委員兼編集委員
伊藤智章氏来訪

伊藤氏は2007年に研究所鉄塔撤去を知って、取材に来てくださいました
その時からのお付き合いです
今回の石碑建立については、お知らせしていなかったのですが
ひょんなことからお知らせして駆けつけてくださいました


9:30 「石碑前にいます」と
ご連絡があり、慌てて飛び出しました

まずは石碑の前で



自宅の庭をご案内


母屋座敷にて取材

事前にお知らせくださっていたので
近場の水野さんと小川夫妻も同席


文書資料室に寄託してあり貸出中の
資料のご説明

水野さんが解説してくださいます


沢山の中性紙箱と共に



ミニ展示室を見学していただく



ミニ実験装置でナイロンロ-プの
切断実験を体験



伊藤記者はこの実験に
とても興味を持ってくださいました

事故を起こした8mmナイロンザイルの
残り部分の展示

NITE(独立行政法人製品評価技術基盤機構)で実験をしていただいた現物です



また石碑前に戻って

記念撮影

左から、水野さん・私・伊藤記者・隆平さん
5年以上お会いしていなかった伊藤記者でしたが、相変わらず精悍でした


11月24日

朝日新聞朝刊三重版


以上、報道でした