槍ヶ岳頂上よりの展望

昭和16年8月4日~11日の登山時の写真




上の写真の右と、下の写真の左がつながります
この写真は下の槍ヶ岳登山の時に写された物です


 父はよく言えば大胆、悪く言えば無謀なところのある人だったが、「初めての穂高」に記されているような経験を積んで、大胆かつ慎重な山行きをするようになっていったのだと思われる。
 平成元年(1988年)7月発行の名古屋大学山岳部会報に「副会長就任挨拶」が掲載されている。牛島先生が会長に就任され、父が副会長をお受けしたのだ。前任者の会長は谷本先生であった。その文章の中に、前頁に写真を入れた谷本先生との鋸岳・甲斐駒岳登山の思い出と、牛島先生とご一緒した籠川生活の思い出が記されているので、該当部分を転記する。

 「副会長就任挨拶」
 <前略>
 以上で副会長就任の挨拶を終わるが与えられた枚数に余分があるので、前会長及び新会長と、それぞれ二人で登った思い出の山行にふれてみたい。
 私は昭和15年本校が総合大学になった時入学したので、第一回の卒業生である。在学中に太平洋戦争が始まったので、大学時代の山行はほとんど単独行であった。結局私に山を教えてくれたのは、八高山岳部である。前会長谷本先輩のもとで、新会長牛島君、ネパ-ル・ブ-タンの中尾佐助さん、南極の鳥居哲也君など勉強そっちのけで、山行に熱中したり、下界ではアルコ-ルに熱中したり、ワイワイ、ヤアヤアと過ごした。
 昭和13年9月、谷本先輩と二人で南アルプスの鋸岳に出かけ、角兵衛沢で道に迷い、熊穴沢の足元がすごく切れ落ちた岩壁の棚でビバ-クし、26日フラフラで甲斐駒の頂上にたどりついたことが印象深い。
(前頁の「鋸岳・甲斐駒ケ岳」に写真)
 また、昭和16年3月、牛島君と二人で大町から扇沢に入り、スバリ岳、黒部谷、立山を越えて富山へ抜ける計画を立て、私の弟二人をボッカに仕立ててさっそうと出発したが、まれにみる強風でテントを破られ、ほうほうの体で退却したことも、忘れ得ぬ思い出である。
(前頁の「籠川生活」に写真)


芳春の上高地

昭和16年4月25日~30日
黒田・駒井・若山
4/25 松本→沢渡→上高地
4/26 ホテル番小屋→徳澤→横尾岩小舎→徳澤
4/27 徳澤→岩小舎→涸沢→穂高小舎
4/28 穂高小舎→奥穂高頂上→ジヤンダルム→穂高小舎
4/29(天長節) 穂高小舎→涸沢→徳澤→上高地
4/30 ホテル番小舎→沢渡→松本→名古屋


秀麗焼岳を背に

左より 父・駒井又二氏・黒田亮氏

駒井氏
 
奥穂高頂上

少憩

ジャンダルム頂上

 他に、昭和38年8月1日名古屋タイムズ社発行の『あじくりげ』87号の見開きに、当時の思い出の短い文章を書いているので紹介しよう。

   

 “山での味覚で何がいちばん思い出深いか”という生まれて初めての質問をうけてすっかり考えこんでしまった。一つ一つの山行を年代順に思い出し、どこで何を食べたと、たぐってゆくうち“ああ、あれがうまかった”というものにぶつかり、次にはそれからそれへと芋づる式に出てきてすっかり楽しくなってしまった。
 味覚を中心とする山のアルバムというものも、またオツなものであることに気づいたのである。
 昭和16年8月8日。妻の十三回の誕生日を記念して、岩登りの名手、浅川氏をトップに、妻―私という順で小槍を登ったが、その時の昼食に、浅川氏が腕を振るって作ったのが“テッカ”というナスを油で炒めて、それに味噌と砂糖をほうりこんだ式の簡単なものであった。しかし腹が減っていたのと馬鹿にはしゃいだ雰囲気であったので何ともいえぬうまさであった。
その後23年、月に一回はテッカを作って当時を思い出している。

 「名古屋タイムズ」から、電話で原稿を頼んできたので、何となく書いて送ったが、串田孫六氏とか深田久弥氏ら、お歴々執筆の本のいちばんトップに掲載されたのには恐れ入った。
(これは、スクラップブックに書かれた父のコメントである)

 上の文に出てくる母との小槍登頂は、父にとって思い出深いものであったのだろう。“テッカ”は、家では“テッカ味噌”と呼んでいて、母の料理レパートリ-の中の一つであり食卓によく並んだが、この時に、教えられたものだとは知らなかった。



槍ヶ岳登山

繁雄・敏子・富子・美代子・志ず
昭和16年8月4日~11日
8/4 名古屋→高山→平湯温泉村山館
8/5 村山館→安房峠→中の湯(バス)→上高地西糸屋
8/6 上高地滞在→小梨平テント
8/7 上高地→吉城屋→徳澤→槍沢→槍沢肩の小屋
8/8 槍肩の小屋→小槍往復→大槍往復→彦・孫縦走→肩の小屋
8/9 槍肩の小屋→上高地
8/10 上高地滞在、思い出深き日、小梨平テント
8/11 上高地→松本→名古屋


8月5日

平湯温泉村山館にて


8月6日
上高地で遊ぶ

左より 父・富子氏・美代子氏・下は母

親戚の富子姉ちゃんと

ランチタイム


8月7日


明神池にて

8月8日
敏子13歳誕生日

槍肩の小屋

敏子小槍初登攀

敢闘する敏ちゃん



頂上近し
 


小槍頂上にて記念撮影
浅川氏と
 



父と母

大槍へ

スカ-トで槍を攀じる


槍ヶ岳頂上にて




大槍頂上より俯瞰




上の写真はアルバム21に貼られていた物に
母のアルバム15の写真を追加しました


NIGHT SKY(星と星のぶつかる時の光を観測) 研究
乗鞍岳肩の小屋

昭和16年8月13日~30日
小野先生・木下先生・木村さん・若山


山頂を構成する峰々

雷鳥の雛
右が父


不消の池

槍・穂高を背景に
 

浅井君と奇遇す(赤外線撮影)
 
ト-チカ状の分光器保護台にて

秋麗の弥陀ヶ原

昭和16年10月4日~11日
武藤・田川・吉永・若山
10/4 名古屋→高山線→富山立山館
10/5 立山館→栗巣野→立山温泉
10/6 立山温泉滞在
10/7 立山温泉→松尾峠→追分小屋→天狗平小屋
10/8 天狗→地獄谷→室堂→天狗平小屋
10/9 天狗→雷鳥沢→剣御前小屋→剣頂上→室堂
10/10 室堂→天狗平小屋
10/11 天狗平(繁雄残る)→富山→名古屋


立山温泉にて
左より 武藤氏・田川氏・吉永氏


楽しき昼食

左より 父・武藤氏・田川氏・吉永氏

悽愴地獄谷

剣御前小屋
 
 平蔵の頭

剱岳の雄姿を仰ぐ

新雪に輝く立山

室堂

黒部探勝

単独行
昭和16年10月11日~13日
10/11 天狗平小屋→一ノ越→雄山往復→ザラ峠→中ノ谷→刈安峠→平小屋
10/12 平小屋→針ノ木峠→針ノ木岳→大沢小屋
10/13 大沢小屋→扇沢→大町→名古屋


龍王岳より槍・穂高を遠望


雄山より剣を望む

雄山山頂にて


雄山山頂よりの展望
 
 
雄山より浄土岳・薬師岳を望む

平小屋の人々に別れをつげて

待望の針ノ木

昨日発ちし立山を望む(針ノ木頂上)

槍・穂高と共に(針ノ木山頂)
 

ここまでの写真はアルバム21
「Gum Andenken an die Berge Band Ⅲ」
と書かれたアルバムに入っていました



若山兄弟と母の海水浴


左より、父・英太叔父・五朗叔父・母・
富夫叔父

 
鈴鹿の祖母(左)と見越しの祖母

別府旅行

昭和15年3月


別府の亀井ホテルにて

左より 南さん・島津氏・父・母
(中の男の子は不明)


船中にて

ここまではアルバム14に貼られていたものです


名帝大教授須賀太郎先生と恵那山


左より 母・父・木下是雄先生・須賀太郎教授

仲睦まじいこと!
母を撮る父



木下先生がお気の毒

八ヶ岳


料理を習う父の珍しい写真


乗鞍にて

この写真のコメントは、2016年3月25日に石岡家を訪れられた学習院大学副学長の荒川先生が
教えてくださったものです



乗鞍岳を背景に東大乗鞍寮(銀鞍荘)

鈴蘭小屋・金山ヒュッテ辺り

御岳山

昭和16年1月
単独行


セルフタイマーでカッコ良く写した後
スッテンコロリン!
 
 

冬の御在所岳


藤内壁



左より 駒井氏・母・?・田川氏・黒田氏

木曽駒ヶ岳




左より 武藤氏・父・田川氏

田川氏と父

乗鞍頂上より御岳を望む

前穂高岳前穂四峰

昭和17年8月

アルバム17に入っていました



最高の一枚‼

四峰頂上にて

左より 父・母・田中氏

涸沢のテント地

涸沢小屋にて

石原一郎氏

父母の仲睦まじいこと!

右より、父・黒田氏・母・田中氏

北穂高岳滝谷

ここからはアルバム19



クラック尾根

穂高連峰クラック尾根
中埜氏と共に

たぶん初登攀だったと思われる

中埜氏と共に

滝谷

1942年7月25日
母滝谷制覇




鹿島槍


八高山岳部の新人達を連れて
下又白谷からブッシュをかき分けてテント地へ


瓢箪池に映る山々と飯盒炊さんをする父達

奥穂高からジャンダルム


本谷橋を渡って

ご来光

穂高小屋前にて、左端上父・下大叔父

宿泊した穂高小屋


奥穂高山頂よりジャンダルムを望む

奥穂高頂上
石岡鈞吾大伯父(母方の祖父の弟)と父

以下の写真は数少ない名古屋帝大の時の学校での写真である


 ここで、父の八高・名大時代の山岳部のお話は終わりにして、昭和16年に始まってしまった太平洋戦争により学徒出陣で繰り上げ卒業を余儀なくされた父のお話をすることにしよう。
 まず、太平洋戦争開戦までの経緯をざっと思い出してみよう。
 富国強兵・殖産興業化を果たした明治維新後の日本は、日清・日露戦争を経て、第一次世界大戦後の混乱する世界経済の渦に巻き込まれていき、昭和4年(1929年)の米国発の世界恐慌で大打撃を受けるに至った。<もたざる国>日本は独自の経済圏構築を目指し、中国大陸に打ち立てた満州帝国に活路を見いださざるを得なくなり、同時に肥大化した軍部の暴走を許してしまうことになった。
 昭和12年(1937年)7月7日に始まった日中戦争(支那事変)で、日本の満州事変以来の中国侵略による権益の固定化を警戒した英・米・仏と、日中戦争の長期化は欧米の中国への軍事支援によるとする日本の関係は急速に悪化して、アメリカ合衆国が航空機燃料や鋼鉄資材の日本への輸出を制限するなど、日本への制裁が図られた。それでも、中国から撤退しない日本は、ヨ-ロッパにおいて第二次世界大戦を繰り広げていたドイツ・イタリアと昭和15年(1940年)に日独伊三国軍事同盟を締結して、ドイツ軍に敗れたフランスのヴッシー政権との合意のもとに仏領インドシナへ進駐し事態を打開しようとしたが、アメリカは石油輸出全面禁止などの経済封鎖をして日本を圧迫した。その後、数度に渡る日米交渉も難航して、アメリカ側は昭和16年11月26日に日米交渉の最後の文書(ハル・ノ-ト)を日本に提出した。これを最後通牒と受けた日本は、12月1日の御前会議で日米交渉の打ち切りと、日米開戦を決定し、ハワイ真珠湾へ向けて出撃していた大日本帝国海軍連合艦隊に対し12月8日に戦闘開始命令が伝えられた。その日、日本は英米に宣戦布告し、開戦となった。
 戦中の日本は、官民あげて軍事最優先の国であった。特に昭和12年5月に文部省が『国体の本義』、また昭和16年7月には『臣民の道』という冊子を配付して、日本神話を持ち出し、日本は神国であること、天皇は現人神であると説き、皇室を宗家とする一大家族国家であるとして、個人主義を排除して天皇に絶対随順を説き、国体の尊厳を心得、国家奉仕を第一として日常生活の中で実践するよう強要した。この国家体制と、陸軍による徹底した神がかりの天皇制崇拝思想(国体思想)で国民を洗脳し、だまし、無理やり徴兵して日中戦争・太平洋戦争に駆り立てた。軍部批判は統帥権独立を盾に不敬罪となり徹底的に弾圧された。これらのことが実践的に行われたため、兵士の生命を軽視した無謀な戦略や、自決の強要などによって、戦争の犠牲者を増大させる大きな原因となった。
 父の所属することになった海軍も日露戦争開戦前のような、敵の強さと己の弱さを知りつくし、百に一つの活路を見いだすために作戦責任者が命を縮めたほどの苦悩をして、早期決着を最優先したかつての謙虚な姿が無く、「奇襲攻撃の後、一年は戦ってみせる」など、見通しのない開戦に踏み切ってしまった。
 大正14年(1925年)4月から、文部省による中等学校以上の体育カリキュラムの一部として始まった教練の指導は、陸軍の現役将校が担当して、心身の洗脳教育を行ったが、太平洋戦争が始まると、現役将校の数が減り、校長が担当した。軍事教練の成果は年一回の「教練査閲」で評価され、軍の査閲官が視察、評価した。
 父もこの教練に参加させられ、評価を受けた。下に「教練合格証明書」と、その当時の写真を入れる。



津島中学校


第八高等学校

名古屋帝国大学
教練


銃剣を持った父の嫌そうな顔

教練控室にて
   

 戦争が進み、戦局が悪化して戦死者が続出したため、次第に兵力不足が問題となり、徴兵を26歳まで猶予されていた旧制大学の学生も、昭和16年10月から修業年限を短縮されて入隊させられた。いわゆる学徒出陣である。父は昭和17年9月28日、6ヶ月早い卒業を余儀なくされた。
 この時のことを、父は昭和60年3月の鈴鹿高専電気科卒業文集に書いている。

 「原点への願い」 石岡繁雄
 諸君は、14年の教育期間を終了して、いよいよ社会に向って羽ばたくことになった。ご両親はもとより、社会もどんなにかこの時を待ち望んだことであろうか。私は諸君の血の高鳴りを感じつつ、心からおめでとうを申したい。
 ペンを持ってまず私の脳裏をかすめるものは、私が学校を巣立ったときのことである。私が卒業したのは昭和17年、太平洋戦争が始まった翌年である。卒業式の翌日には軍服を着せられて軍人となり、翌々日に輸送船で中国へと海を渡ることになっていた。なにしろ戦う相手は米英である。自分の命もあと2、3年ではなかろうかという悲痛な思いを拭い去ることはできない。気がついてみると、じっと空間を見つめている自分を見出すことがしばしばであった。それが私の学校生活の終わりの真の姿であった。これに反し諸君は平和の息吹き華やかな時代の卒業である。諸君の力量が発揮できる時代である。野原に倒れている自分の姿とか、海底に沈んだ姿を想像しなくてよい時代である。私はペンを動かしつつ、私の心は、平和は絶対に守らなければいけない、ふたたび戦争を起こしてはいけないと叫びつづける。
 さて私は、諸君の卒業を祝うべき言葉に代えて、戦争防止の原点への願いを記したい。今後、諸君の若いエネルギーが、より立派な文化国家を建設されていくであろう。また諸君は、素晴らしい家庭を作るであろう。しかしながらそれらは、核戦争が起こればすべて灰に帰してしまうからである。
 世界の現状は、昭和16年、日本が戦争に突入したときの情勢に近づいているように思えてならない。当時アメリカが中心となって、英国・中国およびオランダは、いわゆるABCラインという日本の包囲網を作って日本に圧力を加えていた。日本政府は鬼畜米英などと、米英への憎悪をあおり立てていた。一方で軍縮交渉をしながら、実際にはそれは見せかけで軍拡競争であった。疑心暗鬼はお互いに相手の軍備を過大評価させ、やがては追いつめられた気持ちが理性を逸脱させ、悲惨な結果が分かっていながら戦争を選んでしまったのである。
 現在は米ソの核軍拡である。口では軍縮を言いながら、軍事費は大幅に増え続ける。お互いに相手を非難する。オリンピックまで確執の場に利用される。私には極限状態に近づきつつあるように思えてならない。
 これは人類への最大の脅威である。その責任はいうまでもなく米ソの指導者にある。問題を話合いによって解決することが出来ず、相手を殺す道具を増やしつづける……そういう集団は、理性を持たないギャング集団であり、暴力団である。私は米ソの指導者が一日も早く、ギャング集団から理性集団へと方向を変換されることを願いたい。
(3年、応用物理担当)

 軍事教育によって、天皇は神であり、神風が吹いて日本軍は必ず勝つと信じこまされていた父は、戦後「騙された!だまされた!!」と悔やんだ。だが、それを信じなかった谷本先生は、戦争に反対して「アカ」と呼ばれ拘留された。
 「オタニは本当にすごい人だったよ。『人が人を殺すことがどうしてできようか!』と言って、戦争反対の意見を曲げず特高に連れて行かれて、ひどい拷問を受けたんだ。その頃のわしは、オタニはなにをたわけたことをいっとるのか、と思ったが、戦争が終わって、天皇は神ではなくて人だったと分かり、ほんとうにオタニにすまぬことをしたと後悔した。」と、父は語った。
 父はお人好しで、誰のことでも信じてしまう。生涯この性格はなおらず、騙されて痛い目をみることもあったが、それでも人を疑うことを知らぬような人であった。だが、一度騙されたと分かると、騙した人を徹底的に追及し誤りを正させるようにしたことがほとんどだった(ナイロンザイル事件がもっとも秀でた例)。ただ、情にもろく律儀なところのある人だったので、どうしても言えないこともあった(豊田高専問題)。それらについては、後の章で詳しくお話しすることになる。
 そのようにして、父は名古屋帝国大学を卒業した。
  卒業後、先の文章のように海軍技術将校として、入隊する。

 その海軍での生活は…


第九話 暗雲の章

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