第九話 暗雲の章
2013.7.28 起


青島での訓練

下段より2段目右より9人目が父


 名古屋帝国大学工学部電気学科を卒業した父は、海軍技術見習尉官として、卒業式の翌日には入隊しなければならなかった。
 海軍の制服を身に着けた父は、予備将校の階級だったため、道ですれ違う下階級の兵隊から敬礼を受け、どう返して良いか分からず、軍服を着た人を見かけると、電信柱の影に隠れてやり過ごしたそうである。
 当時を物語る新聞記事が残されていた。下にそれと、読みやすくするために活字化した記事を記載する。

 「大陸に鍛ふ見習尉官」

【青島特電】戦う帝国海軍の頼もしき後陣として、世界に誇る優秀な艦船、兵器をこれからどしどしうみださねばならない重大な責務に張り切る成富部隊の海軍技術科見習尉官○○名達は今故国を離れた支那大陸で、およそ研究室や工場作業とは縁の遠い猛訓練に寧日なき生活をつづけている。見習尉官-この制度は今年から海軍に創設されたもので、やがて海軍の技術仕官となるべき大学、高専の理工科出身者に対し、まづ技術よりも立派な海軍士官たるべき精神的、肉体的、鍛錬を極く短期間のうちに叩き込もうとするのがその眼目とされている。従ってこの教育ぶりの峻厳さは、さながら兵学校の訓練を厭縮したようなものである。さる十月十日青島市内にある、かつての青島大学旧校舎をそのまま営舎として、現地訓練を開始している。一ヶ月間は全く一歩も外出を許されず専ら一人前の士官として恥ずかしくない徳育の練磨と体育練成が主任指導官成富部隊長以下士官によってビシビシと行われた。
この見習尉官たちの中には先ほど臣籍に降下せられた宇治家彦伯爵のすっかり日焼した凛々しい姿も見られる。伯爵の日常は一般見習尉官らと同一で厳しい秩序の中で気高く自らを鍛え上げつつある。


出征記念写真

昭和17(1942)年9月30日




左より 繁二祖父・母・父・志ず祖母

上段左より 正一祖父・志ず祖母・
ふみ曾祖母・庄之助曾祖父
下段左より 母・父・繁二祖父

見越の若山家にて

見越の家にて 壮行会

入隊の朝

10月1日


海軍軍服正装の父

持っている軍刀は、石岡家が父のために設えたもので、刀剣「倫光」を軍刀としたものである

左より 繁二祖父・母・照尾祖母・
父・英太叔父

 昭和17年10月から18年1月までのたった3ヶ月あまりの見習尉官生活は父を大きく変えた。
 「繁雄さんは、食べるのがとにかく遅くて、ウシのようにモグモグ、モグモグ、反すうしているんじゃないかと思うほどだったのに、青島から帰ったら、早いのなんの!アッというまに食べ終わるようになっていたんや。そりゃもうたまげたよ。」と祖母志ずは語った。父は食べるのが遅かったので、それはそれは苦労したようである。何度も殴られ、食べそこねて早食いが身についてしまったのだ。それは、生涯なおることはなかった。それぼど、軍隊生活は厳しいものであった。
 「青島の街は、フランス系が多く美しいが、冬は寒く海上訓練はとくに厳しかった。しかし、これでわしも海軍士官が板についたんだよ。」と父は語った。
 下の写真の青島生活の写真をご参照いただきたい。これらの写真のほとんどは軍からいただいた物だと思われる。アルバム25に納められていた。
 軍の志気を高めるために、一糸乱れぬ行軍や整列の写真が撮られたのだと思う。

青島(ちんたお)にて

 

戦闘訓練


小銃・ピストルの実弾射撃訓練



中国方面に向かう

双眼鏡で見る父

青島神社へ参拝


青島での生活




兵舎にて

清掃中



青島での授業ノ-ト

びっしりと書き込まれたノ-トには
当時の風景や生活のスケッチが入っていた


「通信、水雷、機関」と書かれたノ-ト

「造船、航空、砲術、法制」と書かれたノ-ト


 

相撲大会


青島の風景


青島大学
司令部として使用された





海軍省教育局検閲済手帳、陸戦操式・短艇操式
第3回38式小銃(縦断式側面図)
3年式機銃射表


クリックしていただくと大きくなります

 青島から帰還した父は海軍技術中尉として、三重県四日市市にあった第二海軍燃料廠に志願して、配属された。
 その燃料廠は、太平洋戦争(大東亜戦争)で占領したばかりの南方地域からタンカーで運ばれた原油を、いろいろな装置にかけて処理し、航空機燃料に変える目的をもっていた。
 父が関係していたのは電弧分解工場であった。あちこちの工場から出た廃ガスを集めて瞬時に電弧に接触させてアセチレンと水素に変える工場である。ここで出来たアセチレンは、隣の工場に送られて、重合されてイソオクタンという優秀な航空機用燃料となった。また父の工場には、電弧を発生させるための3万キロワットという膨大な電源施設があった。それは中程度の水力発電所の全出力に相当する。しかもその全てを直流に変えるための6台の水銀整流器を持っていた。(『屏風岩登攀記』「戦争と釜トンネル」より参照)

見習尉官後、技術中尉として赴任

 父はその工場へ、現在の三重県鈴鹿市の家から自転車で通った。
 工場では夜勤もあった。その時に起こった事件のお話をすることにしよう。
 「ある時、夜勤勤務をしていた兵隊が、突然1名忽然と姿を消して、あたり一帯をくまなく探したが見つからない、と言う情報を聞いた。工場では『逃げたんじゃないか』と噂されたんだが、わしは考えてこう結論づけた。夜勤用の兵舎の前には、手すりもなにもない工場排水用の1mほどの深さの溝があるんだが、夜中に小用に行きたくなると、遠い便所まで行くのがめんどくさくて、みんなその溝に向けてシャーっとやるんだ。昔のことだから、非常用の電灯なんて全く点いていない。月の無い夜は墨を流したように真っ暗だ。わしも、それであやうくその溝に落ちそうになったことがあるので、そいつは絶対その溝に落ちたに違いないと思った。そう進言すると『その溝なら、とうにしっかり調べた。だがどこにも姿は見えなかったし、落ちたとしても浅いから直ぐに立ち上がって上がれば良いはずだ。溺れ死んだとしても、遺体が浮いていなければならないはずなのに、そんなものはどこにもない』と言われた。わしは、立ち上がったとしても溝の壁はぬるぬるで、踏ん張れないから一人で上がることは出来ない。大声で叫んでも、聞こえない場所だ。そうこうしているうちに排水がドッときたらひとたまりもない。ず-っと流されて、排水用の網に引っ掛かっているはずだ、と言ったんだよ。次の日、ずいぶん離れた所にあるその網の所を探したら、そこで死んでいた。いなくなってから1週間以上が経過していたが、何日もそこで泳いで生きていたらしい。本当に気の毒だったよ。」と父は語った。
 戦地で殺され、排水で溺れ死に、内地で爆死する。いずれにしても戦争というものは、ひどいものである。

海軍技術中尉時代のノ-ト
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 昭和18年2月には海軍技術大尉に任官され、同年4月15日には叙従七位を受け、昭和19年6月15日には叙位正七位となった。これは大尉に与えられるものであった。
 
 そんな生活の中、昭和19年9月23日、とうとう父母は結婚することになる。父26歳、母16歳の時であった。姉が生まれたのが昭和20年4月10日であったから、いわゆる「できちゃった婚」である。戦局も悪くなり自分の命もいつまであるか分からないと考えた父は、きっと子孫を世に残したかったに違いない。
 当時の養子縁組は、とても厳しいものであった。特に長男が養子に出ることは大変だった。祖父繁二を原告として、父繁雄が被告となり裁判が行われた。右にその大変だった名前変更関係の書類を掲載する。
 結婚式は自宅の2階で行われた。三々九度の盃を受けた母は、飲み切らないと結婚できないものと思い込み、なみなみとつがれた盃を飲みほし、1階の座敷で行われた披露宴の間中、酔っ払ってもどしていたと言う。まだ16歳になったばかりの母には、笑い話にもならない辛い経験だったと思う。
 とにもかくにも、妊娠3ヶ月のお腹を抱えて、めでたく結婚したのだった。

 上の名古屋地方裁判所からの呼び出し状を
クリックしてください。
 詳細がご覧になれます。

 

人生最良の日<繁雄・敏子結婚式>

昭和19(1944)年9月23日


結婚式
11時より鈴鹿自宅2階にて




披露宴
12時より1階座敷にて

 昭和19年12月7日に起きた東南海地震から、昭和20年1月13日の三河地震にかけて、鈴鹿市は大きな地震を体験することになる。その頃、お腹の大きかった母は、家の裏の路地で地震に遭い動けなくなったところを、見知らぬ男性に助けられて事なきを得たそうだ。
 そして、昭和20年4月10日、無事に長女梓が誕生する。あどけない母の顔と、嬉しそうな父の写真を見てやっていただきたい。

長女梓誕生

昭和20(1945)年4月10日


お腹の大きな母

銀行のおじいちゃんと
父の嬉しそうなこと!

姉のお七夜
産婆さんとともに

海軍時代の父と家族


上段左より 母・父・祖父正一
下段左より 曾祖母ふみ・大叔父勝井氏・
曽祖父庄之助



左より 祖母志ず・旅館の女将・母・父

昭和18年
富夫叔父ラバウルへ出征前の外泊にて
左より、祖母照尾・五朗・富夫・父

昭和19年
英太叔父の海軍予科練出征記念
左より、父・祖父繁二・五朗・照尾・英太
家族4人で
鈴鹿の家の座敷にて
左より 正一祖父・母・姉・父・
英太叔父・五朗叔父

 見越の父の実家若山家では、3人の息子を戦争に取られている。富夫叔父は陸軍軍人としてラバウルへ、英太叔父は海軍の予科練へと赴いた。祖母はどんな心境だったか計り知れない。

戦時中の父とその周辺の人々


燃料廠の方々を招いて


燃料廠の方々と

燃料廠の集まり



 自分たちは聖戦を闘っているのだと信じてやまない父は、燃料廠でも活躍する。
 次の父から伝えられた話は、自分史『ザイルに導かれて』の中にも記載がある。
 「戦況が悪くなり(昭和19年10月23日、農商省より松根油緊急増産対策措置要綱を決定)、ほとんどの日本のタンカーが沈められてしまい原油が手に入らなくなって、松根油(松の根っこから生成するガソリン)を作ることになったんだ。わしのいた電弧分解工場で、その作業の最終段階の粗松根油というのを精製したが、ある問題が起きた。原因不明の出火事故が起こるんだよ。戦局を左右するような重要工場なのに、連続運転が2日と続かない。
 原因を調べた結果、廃ガスのアセチレン化反応塔として利用した大砲の砲身による電位差の発生が引き起こす火災と、400気圧をかけた水素と松根油をニクロム線で500℃に加熱し、ニクロム線を冷やすのは材料の松根油だが、高温のために松根油が炭化して、硝子のパイプをふさいでしまう。冷却油が通らなくなったパイプは高熱化して割れ、松根油がもれてニクロム線が切れて火災となる訳だ。壊れたパイプを交換するのに2日もかかって、30分も運転するとパイプは割れてしまう。これではどうにもならんので、わしは考えた。だいたい皆は重要な箇所ばかりみて考えていたが、盲点は単純なところ、パイプにあった。パイプを並列化してつまりを回避するようにしたんだ。」

燃料廠錫のパイプを寄贈

平成3(1991)年6月5日
燃料廠に必要な冷却水不足を解決したときに使用した錫のパイプが、自宅納屋からみつかり
四日市市教育委員会に寄贈する以下はその受領書と写真


担当の秦氏と錫のパイプ
この後、朝明へ赴き、当時の水取り口を発見


燃料廠への給水不足に対する対策工事図


図をクリックしてください。大きくなります

 海軍時代の父の登山はどうなっていたか。青嶺の章で掲載した「鈴鹿の思い出」の中から<戦争中の思い出(昭和16年~20年)>を参照してみよう。

 「戦争中の思い出」

 戦争中は、いわゆる「一億火の玉」とか「欲しがりません、勝つまでは」といっていたご時勢なので、山に出かけるにしても、出陣にそなえて心身を鍛錬するという名目でないと行きにくい。近鉄山の家にも、人一人訪れない日が多かった。
 私は戦争中、神戸の自宅から四日市、塩浜の第二海軍燃料廠へ自転車で通勤していたので、鈴鹿の山にはときどき出かけた。<中略>
 戦争中、釈迦から御在所への稜線に登山道が作られた。といっても熊笹を主とするボサを巾30cmほど刈っただけである。私はそれを知ったので、釈迦から鎌ヶ岳まで、積雪期初縦走になるかもしれないなどと思いながら、1月の中旬、神戸を朝一番の電車で出発した。稜線は膝までのラッセルで、それに刈りたての熊笹に足をとられ、道のりはさっぱりはかどらなかった。根の平峠に立って、雪景色の朝明谷や伊勢平野を見下ろし、雪道を延々と下っているのを見て、よほどこのまま下ってしまおうかと思ったが、その誘惑を振り切って、ふたたびラッセルを続けた。御在所頂上で日が暮れ、鎌までの縦走をあきらめて、月明かりをたよりに表道を下った。


 また、著書『屏風岩登攀記』の思い出の山旅の中に「戦争中の登山」を書いている。かいつまんで紹介してみよう。

 「戦争中の登山」

 昭和19年11月、戦局がしだいに不利となるにつれて、軍の計画は常軌を逸して膨大となり、成功の見通しのない無理な命令が、つぎつぎと発せられるかのように思われた。
 私は勤務先の四日市の海軍燃料廠から、茨城・福島の県境に近い高萩に出張を命ぜられ、ただ一人、20日間をさびしい宿の一室で過ごした。…
 私はかねて今度の長期出張を利用すべく、休日をやりくりし、出張休暇の一日と合わせて三日間をどうにか取得したので、おそらくは、これが最後となる穂高ゆきを決行することにした。
 リュックに山行きの服装をつめ、あらかじめ、松本駅前飯田屋旅館宛に送った。しかしピッケルは送らず、ひそかに短いマントの下に隠して出張期間中持ちまわった。…
 予定の日が終わると、私はいそいそと車中の人となった。…
 リュックを受け取り、一室を借りると、海軍大尉の軍服をさらりと脱ぎ捨て、土臭くてあちこち破れた登山服と着替え、いつものクシャクシャになったソフト帽をかぶった。…
沢渡から徒歩三里(約12km)、上高地は戦争を知らず、いつもの平和な姿をもって迎えてくれた。…
 楽しいにつけ、さびしいにつけ、十年来の思い出がつのって生家のようになった山宿、西糸屋の板塀が白樺林の間にちらついたと思ううちに、もうその家の門に立っていた。4年ぶりにふれる入口のガラス戸も、ぎこちなくガタガタと開く不愉快な音にも懐かしさがあふれている。…
 おばさんのびっくり仰天した顔が目の前にあらわれた。
「誰かと思ったら若山さん(私の旧姓)じゃないか。まあ、どうしていまどき、なんでも北支へ征っているとか聞いたのに」…
「心配ないぜ、逃げてきたんじゃないから」
「そんならいいんだけど、大丈夫なのかい」…
 今度は、学校を休んだのとはだいぶ訳が違うのだから、おばさんが心配するのも無理はない。…
 中ノ瀬から右に折れて西穂への道をたどる。真珠を連ねたような流れに沿って次第に高さを増してゆく。いつのまにか上高地の上にはっていた朝霧の層の上に出た。振り向くと新雪をおいた霞沢岳の頂が眉に迫っている。山の裾の方は朝霧がたちこめて白一色である。梓川の流れは、上高地を区切る平坦な自然林とともにその下に沈んでいるのだ。
 まもなく小道は沢を離れて、右手の草の生えた急斜面をジグザグに登っている。5cmほどの新雪を踏んでゆく。汗が頬を伝い、呼吸がみだれる。連日の過労がたたったのであろうか、身体は妙に重い。しかし、こうしてあえぎあえぎ肉体を削る思いで登るのも、これが最後になるのかもしれないと思うと、苦しみそのものが無限の懐かしさを与えてくれる。…
 西穂小屋を過ぎると灌木は姿を消して、はい松地帯となった。松の緑の葉には薄く氷がかぶさり、それに粉雪がくっついて風にふるえている。私はその根方を、疲労のために、はうようにして歩いていった。稜線はまもなく岩石のみとなった。烈風は粉雪を巻き上げていたし、岩陰には氷の塊がくっついていた。
 ついにピラミッドと称する岩峯に達した。明神から前穂へ、前穂から奥穂へと、新雪の薄化粧をほどこした、夢にも忘れぬ雄大な眺めが私を完全に圧倒した。どの小さな突起でも凹みでも、そこから思い出の糸をたぐれば、次々にほぐれて、つきるところを知らないのである。振り返れば焼岳が眼の下になっていた。怒涛のような雲の流れが、焼岳と私の立っている西穂との間の鞍部を、飛騨側から信州側へとすごい勢いで動いてゆく。厚い雲の層が蒲田の谷からもくもくと発生し、それが尾根をのりこして、上高地盆地に次々に吸い込まれてゆくのである。
 私は不安定な岩の上に乗った新雪を手ではらいのけ、慎重に一歩ずつ西穂の頂上に向かって進んだ。ピッケルを握る指先が凍えて感覚が薄れてゆくのを感じた。いくつかの突起を越すと、やがて私は西穂山頂に立った。… 寒さと空腹に耐えかねて、立ち去りがたい西穂の頂上を後にした。私は今や心の故郷、穂高の峰々にも、槍ヶ岳にも、その左に連なる波のように重なった山々にも、万感をこめて惜別の挨拶をかわした。
「いつまでも達者で暮らせよ。なあ、お前たちは人間の戦争には関係がないんだから」
 私はぶつぶつつぶやきながら、冷たい岩肌をなでるように歩いた。…
 疲れは、かって経験したことのないほど激しかった。私は平坦な所でも、立って歩くことができずにはって歩いた。私は、私の意固地な性格のために、死ぬような苦しみを味わわねばならない自分の肉体を気の毒に思った。考えてみればこの4月、電源関係の長期出張を利用して、黒部の第三発電所から剣岳を往復したことがあったが、その時にも疲れのために倒れそうな苦しみを味わい、私の山生活も長くはないと心から寂しく感じたことがあったが、今回はその思いがいっそう痛切であった。…
 はたしていつの日にか、ふたたび平和が立ち戻り、光のどけき春の日をこの地で享けることがあるのだろうか。明日はまたどろどろの石油が溢れ、強烈な臭気の充満している生活に帰ってゆかねばならぬのだ。
 その夜は、島々から帰ったおじさんとともに、陽気に飲んだ昔のことども語り合いながら、世の更けるまで寂しく盃を傾けた。
 …は、<中略>です

 父は、なんやかやと暇をひねり出しては山に登っていたようである。戦地に行かれた方々とは比べ物にならぬほど恵まれた環境にあったのだと私は思う。

戦時下の山行き


西穂高頂上にて
上記「戦争中の登山」の時の写真

 
御在所にて
父母




 昭和19年7月、ドイツ空軍のロケット推進の局地戦闘機メッサ-シュミットMe163の資料が日本にもたらされた。その資料を基に、機体は海軍が、エンジンは陸軍が担当し、陸海軍共同で研究開発されたロケットエンジン搭載の戦闘機、十九試局地戦闘機<秋水>の完成が急務とされていた。
 海軍第二燃料廠では、その戦闘機<秋水>の燃料を作ることとなった。
 三重県四日市市は燃料廠をはじめ多くの工場群を擁していた。そのためアメリカ軍の重要攻撃目標となり、昭和20年6月18日にはB-29戦略爆撃機89機が焼夷弾11000発を投下した。世にいう四日市空襲である。以後、8月8日までに計9回の空襲を受け、壊滅的な被害となった。被災者49198人・死者808人・負傷者1733人にのぼった。
 当時、燃料廠では夜勤勤務があったそうだが、父がその当番を忘れて帰ってきてしまった日に、四日市空襲があり九死に一生を得たという話を聞いた。父の物忘れはとびっきりひどくて、考え事を始めると何もかも忘れてしまい、自転車で畑に突っ込んだりしたこともある。その物忘れのお蔭で助かったのだから、それも悪くはないのかもしれない。しかし、その時犠牲になられた方々に、終生申し訳なく思っていた。
 さて、<秋水>の燃料製作にやっきとなっていた燃料廠は、空襲のためにその機能を失い、工場全体を疎開させる計画が立てられた。それについて『屏風岩登攀記』の中に「戦争と釜トンネル」という文章がある。長くなるが掲載させていただこう。

 「戦争と釜トンネル」(昭和20年)

 上高地の南の入口に、梓川沿いで一番長く、傾斜の急な釜トンネルがある。松本から登ってきたバスがこのトンネルを超えると景色は一変し、いわゆる上高地特有の風景が展開し始める。ここに述べるものは、このトンネルが戦争中まさに蜂の巣のように掘り返されようとした話である。大東亜戦争があと半年長引いたとすれば、このトンネルは戦争の中心に位置することになったかもしれない。この話は、これまで文献に記されたことがないと思うので、登山そのものには関係ないが、特に記すことにした。<中略・前記燃料廠の説明部分に記載>
 その頃、私たち各工場の責任者は廠長(Y海軍中将)から集合を命ぜられ、軍機に属するという話を聞かされた(当時の海軍は、私たちのような大学を出て2,3年という者を大工場の責任者にしていた)。
「貴官承知のごとく、日本は米英の物量に耐えかね、次々に基地を失って後退し、ついにサイパンはB29の基地となり、日本の都市は連日の空襲で焦土と化しつつある。しかし、日本の戦闘機は数が少なく、能力も不足し、それにガソリン不足のためB29の侵入を防止できない。だが、ここに起死回生の手段がみつかり、日本はこの戦術にかけることになった。ドイツはロケットV2号(月へ飛んだアポロの前身である)を使ってはるか離れたロンドンを襲っている。V2号の燃料は過酸化水素であるが、これは水と空気が原料で、電力さえあれば無尽蔵にできる。また、V2号の構造は簡単であるため製造が容易であり、しかも高速であるので敵機に落とされることはまずない。最大の欠点は命中精度が悪いことである。このため、ドイツは敗戦を挽回することができない。しかし、V2号を改造して人間一人を乗せるようにし、人がこれを操縦し万一の場合体当たりするようにすれば、これは百発百中の恐るべき兵器となる。日本では、このような兵器を造り、来襲するB29を一機残らず撃墜し、さらに敵艦に対しても使用することになった。現在の劣勢を挽回するにはこれ以外にないと思う。さて、V2号の製造方法であるが、つい先日この秘密がドイツの潜水艦によってはるばる日本に届けられたのである。V2号の機体は、各地の兵器工場でつくられる(秋水と命名された)。つぎに燃料の過酸化水素の製造であるが、これは電気分解を行い造るので、整流器が大量に必要となる。日本国内の整流器について調査した結果、当燃料廠で必要量の50%を生産し、残りの50%は全国に分散して製造されることになった。秋水搭乗員の選抜と訓練も同時に開始される。諸君は日夜をわかたず努力して、秋水の燃料製造装置を一刻も早く完成してもらいたい」というものである。
 結局、燃料廠の水銀整流器はすべて私の工場にあるので、私のところが作業の中心となった。また電気分解をやるための電界槽は、私の工場を中心にしてあらゆる空き地に設置されることになった。その翌日から、それまでの廃ガス処理設備の除去と、それに代わって過酸化水素製造設備を設置する作業が始まった。
 さて、V2号に使用される過酸化水素は、濃度90%以上でなければならない(薬用のオキシフルの濃度は2%くらいで残りは水である)。電気分解一回だけでは濃度が足りないので、電界槽を十数個、七分の一ないし六分の一の勾配をもった傾斜地に一列に並べ、電解液が上の電界槽から下の電界槽へと順次流れていくようにし、その間で電気分解を十数回、繰り返させる。下へいくほど電解液の濃度は濃くなり、最後に出てくる電解液からは90%以上の過酸化水素が得られるという訳である。
 これに使用される電極はいろいろと研究されたが、どうしても純粋の白金でなければいけない。また、白金そのものは電気分解によって少しも消耗しないが、白金の量によって一日当たり製造される過酸化水素の量に決まるので、日本中の白金が回収されることになった。それと、電気分解のとき電解液の温度が上がるので、多量の低温の冷却水で冷やさなくてはならない。ところが、この低温の冷却水が夏には容易に得られない。冷却水の問題を未解決のまま、工事は日夜を分かたず進められた。燃料廠のあちらにもこちらにも六分の一の傾斜をもった土の山が次々に立ち上がり、その山の斜面に、伊勢湾の対岸、常滑から船で運ばれた陶器の電界槽が櫛の歯のように立ち並び、その間を錫のパイプが縦横に走った。電解液を入れるための大きな錫の塔が林立し、またその間を電気配線が蜘蛛の巣のようにはりめぐらされ、廠内の光景は一変した。
 一方、全国民から集められた白金は、東京の徳力という貴金属商で紙のように薄い電極に加工された。私は加工された白金20kgを超満員の東海道線の夜行で東京から四日市へと運んだ。座席の下に白金を詰めた箱を置き、その箱と私の腰とをロ-プで結んだ。手洗いへも立たず、一睡もせず頑張った。
 この大工事は完成一歩手前であった。アメリカがこの秘密兵器に気が付いたのかどうか知らないが、燃料廠はこれまでまったくの無風状態であったのに、この頃突如として2回にわたって徹底的な夜間空襲をうけ、各工場はほとんど壊滅した。多くの巨大燃料タンクが次々と何十メ-トルも飛び上がり、松根油から製造されたガソリンが燃え上がり、夜空を真っ赤に焦がした。無数の電界槽が粉々に吹っ飛び、白金が飛び散った。人々が血まみれになって倒れた。一夜明けた廠内は凄惨を極めていた。私はその中を茫然と歩いた。人間よりも大切な白金を、どんなかけらでも拾うために人海作戦がとられた。針金で目の細かいふるいを作り、それに土を入れ白金のかけらを選び出すのである。昨日まで電界槽の中で光っていた白金電極もあわれな姿なら、それを拾うため一列になって土をまさぐる人間たちの姿はさらにあわれであった。
 しかし、2回の猛爆にもかかわらず3万キロワットの電源設備は奇跡的に無傷であった。ここで当然のことながら装置を疎開させることになった。さて問題は疎開先である。私は、豊富な電力、低温の冷却水、爆撃に対して安全な場所、六分の一の傾斜と考えているうちに、上高地の入口の釜トンネルに気がついた。これこそまさにうってつけであると思った。同時に、上高地が私の死に場所になるということは、なんという幸運だろうという気持ちが湧き上がった。将来秋水が活躍することになれば、米国は釜トンネルを必死になって襲うにちがいないからであった。
 この秋水作戦のキ-ポイントともなりかねない疎開先の選定にあたって、私は私情を混入させようとしているのではなかろうか。厳重に自戒しなくてはいけないと思い、私は釜トンネルをできるだけ忘れるようにし、なんとかもっと良い候補地はないかとあちこち捜した。しかし、そうしながらも、どうしても釜トンネル、いや穂高の峰々に包まれた私の第二の故郷、上高地が瞼にちらついて離れようとしない。
 候補地選考会議で釜トンネルの長所短所を説明している時でも、また厳しい質問を受けている時でも、私は、私情を捨てろ、穂高を忘れろと自分にいい聞かせていた。一方において釜トンネルを主張しながら、他方においてそれを否定しようとする。私は汗びっしょりであった。そして、釜トンネルが本決まりとなったとき、これは大変なことになったと思った。
 決定の翌日、私はA大尉といっしょに長野県庁に赴いた。あらかじめ電話で足止めしてもらっていたので、県庁に着くと同時に長官(今の知事)、総務部長、土木部長らにおめにかかることができた。しかし、釜トンネルの中に工場をつくるということがどうしても理解してもらえない。
「よりによって、どうしてそのような不便な所へ疎開するのか。困るに決まっている」と、頑として首を縦にふらない。
私はA大尉に耳打ちして二人だけで廊下へ出た。相談の上、最高機密を話すことを決意した。私たちは部屋に戻り、秋水作戦の内容を説明し、釜トンネルに優る条件の場所があったら教えていただきたいと頼み込んだ。そのときはじめて、了解が得られ、かつ全面的な協力が約束されたのであった。
 さて、いよいよ疎開である。このままぐずぐずしていてつぎの空襲を受け、電源設備をやられるようならば元も子もなくなる。しかし、一口に疎開といっても、容易ではなかった。あちこちの鉄橋が落とされている。駅が焼失している。貨物列車そのものが次々に失われてゆくのである。他方、疎開すべきものはますます山積みされる。もちろん一般住民が疎開のための交通機関を利用することは不可能であった。都会の住民は、空襲の恐怖にさらされながら疎開もできず、結局空襲を受け家や家財道具が焼け、疎開させる物がなくなってから親類・知人を頼って身一つで出ていくことになる。
 軍関係でも疎開の緊急順位が定められ、順位が低ければいつまで待っても疎開ができない。梱包した荷物が爆撃で次々と失われていくのを泣く泣く見守るだけだ。しかし、秋水関係は第一順位で<シキ>などという、それまで見たこともない日本でも数少ない貨車が、変圧器や整流器の梱包が終わらないうちから、関西線の引込み線を経て廠内に姿を現していた。
 釜トンネルへのル-トは二つある。松本から梓川に沿うコ-スと、高山から平湯峠、安房峠を越すコ-スである。松本コ-スは距離は短いが、問題なのは、容積も重量も大きい5000キロワットの変圧器や水銀整流器が梓川に架けられた橋やトンネルを通過できるかという点である。私は松本から高山まで歩いて、それらを一つひとつ確かめた。途中、各発電所へ立ち寄って電力供給能力などの打合せもした。私は山を歩けることが、ただ嬉しかった。上高地では、安曇村村長小林継太郎氏と旅館組合長奥原英男氏(西糸屋のおじさん)の三人で職員・工員の宿泊などの打合せをし、また平湯では日通関係者・土建業者と道路・橋梁の修理と、釜トンネルの拡張工事の打合せをした。
 どこででも、工場の疎開先をなぜ釜トンネルに決定したのかとか、いったい釜トンネルで何を作るのかという質問をうけるが、私はそれには答えられない。それに私は軍服でなく古い登山服なので、私の話はさっぱり信用されない。とくに西糸屋のおじさんと話していると、八百長のようで、真剣になれないので弱った。
 調査の結果、工事を進めるうえで特別に支障になるものはないようであった。ただ冬期の輸送が確保できるかどうかが問題になったが、私が、
「原料を釜トンネルに運び込む必要はなく、釜トンネルの中で製造された製品をおろせばよい。しかし製品は一個25kgくらいでガラスの瓶に詰められている」と説明すると、原料のいらない製品があるのかと、かしげた首は容易に戻らなかったが、とにかくそういうことならば村人を動員して、雪ぞりでも、背負ってでも降ろせるということになった。
 さて、疎開すべき物資の釜トンネルへの搬入の方法は、軽い物は松本から、重量物は高山からということに決定した。疎開の作業はどんどん進み、電界槽、錫のバイプ、容器、小型モ-タ-等の小物は、中央線と松本電鉄で運ばれたが、松本電鉄の終着駅島々に収容しきれず、赤松駅などのプラットホ-ムにもあふれていた。一方、高山駅前の広場には変圧器六基、水銀整流器六基が立ち並んだ。
 私の家族も、貨車の最終便に積み込むために、引っ越しの準備を始めた。家の中は梱包の山で足の踏み場もない。上高地への引っ越しなど夢のようで、信じにくかった。私はもう一度現地に赴き、業者とトンネルの中を詳しく調査し、設計図と見比べつつ、どこをどのように拡張するかという相談をした。
 2,3日中にもボ-リングが開始されようとしている。また、関電と東電の関係者が集まって、梓川沿いの各発電所から釜トンネルまでの電気配線のやり方について具体的な打合せをしているようであった。海軍省、電源関係者、そして私とが、工事完了の目標などの最終打合せを、松本浅間温泉の西石川旅館で行うことになった。
 その日は、私の手帳のメモによれば、昭和20年8月9日であった。湿気の多い暑い日であった。私は、西石川旅館に約束の時間より早く着いた。連日の過労のためか発熱気味であった。私は旅館の女主人に「東京からお客が来る。そのときは起こしてくれ」と頼んでおいて床についた。夢うつつのうちに重苦しい時間が経過し、はっと気がついたとき、約束の時間はとうに過ぎていた。
 私は到着が遅れている原因をあれこれ想像した。この秋水作戦より緊急なものがあるとは考えられない。私は海軍省へ電話した。電話は夜明け近くに通じた。私の名指すS少佐は電話に出ず、代理の人が出た。
「約束を果たすことができなかったことは申し訳ない。こちらからも電話を申し込んでいた。実は、広島に特殊爆弾が落ちたことはご存知でしょう。そのための調査団が昨夜広島に向かった。S少佐はあなたに会うために松本に向かって出発しようとしていた直前、急に広島への調査団に同行するよう命令された。もちろんS少佐はあなたとの打合せの重要性を知っているので、調査団への参加を渋ったが、命令でやむを得なかった。次の会合の期日は追って知らせます」という説明であった。
 私は、広島の爆弾が秋水作戦よりも大きな意義をもったものであることを知った。もちろんそれが原子爆弾という戦争を左右するような威力を持ったものであるなどということは知る由もなかったが、それでも、底知れぬ暗闇に突き落とされたような不安を覚えた。
 張りつめていた全身の力が抜け、帰りの中央線では、もみくちゃになりながら、私は虚ろであった。燃料廠での上司への報告のときも、私は魂の抜け殻のようであった。仕事が手につかないまま、8月15日、終戦の玉音放送を聞いたのであった。
 終戦後、十日ぐらい経った頃であろうか、私が一番信用していたKという年配の職手といっしょに事後処理のため松本・上高地・高山へと赴いた。松本駅には小林村長や松本電鉄の方が迎えに来ておられた。途中、物資であふれた松本沿線の駅を眺めて感無量であった。
 その日は村役場で物資処理の方法について打合せし、夜は稲核の小林村長の家に泊めていただいた。島々付近の物資はすべて安曇村に寄付することになった。翌日、徳本峠を超えて上高地に入り、さらに翌日は、この際山に登っておこうと思って、雨の中、西穂、天狗、岳沢、上高地と一周した。その次の日、安房峠、平湯峠を越し、途中トラックに便乗して高山駅に赴いた。
 駅前に林立した変圧器や水銀整流器を調べていたとき、一人の男が私に近づき小声で「これが原子爆弾を作る機械でしょうか」と尋ねた。当時、広島に落ちた爆弾が原子爆弾であったことが知れわたり、日本でも原爆を作っていたが、間に合わなかったというデマが流れていた。
 その後、島々谷が大水害で荒れて、島々宿の部落が押しつぶされたとき、その復旧に錫のパイプなど、これら放出物資が大いに役立ったという話を聞いた。
 小林村長も、西糸屋のおじさんも他界され、それに釜トンネルは大拡張されて昔の面影はなくなった。私自身、ここをバスで通っても思い出すときは少ないくらいである。

 この話は、他では話されたことのない貴重な体験談であると思う。
 文中には日本中の白金回収の話が出てくるが、戦争中は金なども没収された。
 「うちには、金でできた、そりゃぁ見事な羽根をひろげた大きな鷲の置物があったんやが、それも供出させられてしもて、庭にむしろを敷いて、家中にある金をみんなその上に出さすんや。鷲の置物は運びにくいから、その場で大きな金槌で叩き壊わされたんよ」と祖母志ずは口惜しそうに語った。


秘密兵器「秋水」燃料工場予定地
釜トンネル視察


河童橋にて
有田大尉と父

西糸屋の人々とともに
後列、右端が有田大尉・左端が父

「秋水」燃料工場建設覚書
昭和20年5月15日~8月9日

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「戦争と釜トンネル」に出てくるS少佐の記事

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 悲惨さを極めた第二次世界大戦も多くの犠牲を払って終わりを告げた。天皇は神ではなくてただの人になった。集団催眠から解き放たれて生き残った人々は、茫然と焦土に立ち尽くした。
 この章の終わりに、晩年の父が残した言葉を記そう。
 父は、朝・昼・晩のテレビのニュ-ス番組をほとんど欠かさず見ていた。その中に戦争をしている国々のニュ-スが出てきたときに必ず言った言葉である。
 「戦争はいかん。人と人とが殺しあってはいかんよ。なんで人間はそんなことが分からんのかなぁ。。。情けないなぁ。。。」
 独り言のように、涙を浮かべながらつぶやく父の姿が、今でも鮮明に残っている。

残されていた「終戦証書」のコピ-


 





第十話 暁の章