昭和29年(1954年)

 屏風岩初登攀以後の鬱屈を解放するかのように、この年父は、信じられないほど精力的に動きます。
 10年前から山稜会(八高山岳部OB会)の仲間と共に温めた、ヒマラヤへの道を模索して、遂にヒマラヤ遠征会を発足させました。
 また、朋文堂から依頼の入った『穂高の岩場』の制作にも意欲的に取り組んでいます。
 名大学生部では冊子『奨学生の推薦基準について』を発表しました。
 名古屋に住居を移すため、名古屋自宅の設計も手掛けています。
 一人の人間が、一年間でこれだけ多くの仕事をしたことは、次の年早々に起きる大きな事件を予感してのように感じられるほどですが、これからの人生はこの年を上回る勢いで働かざるをえなくなります。
 では、それらの詳細を判りやすいように各項目ごとに分けて掲載いたしますので、ぜひ!ご覧ください。
 ☆緑字はあづみ注釈です。
 ヒマラヤに関する1年間の動き
 2月8日起「ヒマラヤに関するメモ」ノ-ト
 このノ-トには、前年12月始めからの、名大ヒマラヤ遠征会発足に至る様子が詳しく記されている。まずは、その部分を解読清書する。


 2/8 これまでのことを概略まとめる
 1. 昭和28年12月初め、名大OBと名大現役の会として名古屋大学山岳会誕生する。この席上ヒマラヤを目標にしたいことを語りあう。このヒマラヤのことが、朝日(小さく)、中日(大きく),岳人に掲載され、名大ヒマラヤは一応全国に知られ、一昨年のこともあり、慎重に実現したいことを思う。
 2. 12月26日 (金) 牛島、田中、館、石岡が学長を訪れ、一応の了解を求める。学長としては「いいことだから、つぶさないようにしっかりやりたまえ」と激励あり。
 3. 1月27日 (日)
 京都の中尾氏を訪れ、ヒマラヤ準備に関してうかがう。しかし、我々の目標としているジャヌ-に対して強い反対あり。
 4. ジャヌ-の理由を、繰り返し長文の手紙を出し、さらに細部の返事にわたって尋ねる。これに対し、重ねてジャヌ-反対とそのほかの指示あり。
 5. このままジャヌ-を強行することは問題であるので、大阪のスワタ氏を2月4日~5日と訪れ、夜1時過ぎまで語ったが、結論を得ず。翌日結局、ジャヌ-のトレーニングとして、ガネッシュまたはジュガ-ル、ガウリカレガルに目標を変更することに同意、帰宅。
 6. 終夜考えるも尚悶々とし、翌日、また翌日考えあぐみ、再び良心に従い、ジャヌ-に向かうことに腹を決める。オタニ
(八高山岳部先輩谷本氏の通称)にこの間の事情を話す。オタニもジャヌ-に同意。ここに名大山岳会としての腹を決める。
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 3月5日に行われた名古屋大学ヒマラヤ遠征会発起人会
 開催の模様

 名古屋大学ヒマラヤ遠征会会則と名簿
 
 文部大臣大達茂雄氏宛「外貨支援」依頼書
  名古屋大学長勝沼精藏氏


 「遠征計画概要」 名古屋大学ヒマラヤ遠征会


 7. 2月7日 (日)
 三稜会
(八高山岳部OB会)、東寿司(名古屋市東区)にて開催。約30名出席、中尾、伊藤、主事三氏来る。天然色のゲントウあり。中尾氏の「山はどこですか」にオタニ「ジャヌ-」。中尾氏「ホ-」と簡単に返事する。ネパールの地図三部を借り受ける。
 8. その後で、いよいよ乗り出すこととし、まず、学長を会長に推すこととし、須賀、日比野、
(人名一人読めず)他、大勢で訪れることに一致する。

―ネパ-ル調べ2頁分飛ばす―

 〇 カルカッタでやる仕事、及び滞在日数、費用
 2月19日 夜行で須賀さんとともに上京。木下さん
(元学習院大学学長、父親友)の家で朝食。学習院から方々に電話。
 1. 市政会館で松方さん
(1946-48,62-68年日本山岳会会長)に会う。
 2. 読売の企画部長村上徳之氏に会う。
 3. 堀田さんに毎日で会う。
 4. 首相実宅で国務大臣加藤鐐五郎氏に会う。
 5. AM.10:30村山氏宅で村山氏に会う。
 6. PM.2:30西堀氏に会う。
 7. 午前中、複写
 8. 午後、クリンュ-ナ氏に会う。
 9. 辰沼氏宅にて槇さん
(1944-46,51-55年日本山岳会会長)以下と会う。

 3月5日(金) ホテルマルエイにて
 
 役員・委員などの下書き
  京大隊の日程表
  名大日程・費用下書き

 その他…松方氏などへの手紙の下書き3通分


 ヒマラヤ(ジャヌ-)遠征費用概算
  
メモ3頁分と清書2頁分右下の「遠征計画概略」に反映

 
2月20日付 石原一郎氏への父の書簡下書き(全文解読清書)
 ご無沙汰して申し訳ありません。ご努力も心から感謝します。全く貴兄のお言葉通り嫌になる仕事ばかりです。今からこんなでは困る困ると思いながら一生懸命やっています。この前はどこまでお知らせしたか忘れましたが、その後非常に遅々としか進んでいません。
 一細目について中尾さんの話しを聞こうと1月17日京都へ行きました。いろいろとわかりましたが最も大きな問題にもぶつかりました。中尾さんがジャヌ-に賛成しないことです。「どうして登れない山へ行くのか」という訳です。それでジュ‐ガルガウリサンャ-ルなどを心から勧めてくれました。こういう山だったら渉外は一切やってあげようと言ってくれました。しかし中尾さんから帰っても、その気になれず長々と手紙を書きましたが、また長々と返事が来て、ジャヌ-は反対でジュ-ガルガウリサンャ-ル行きについて、細々と注意はしてありました。私はこれは大変と思って、スワタさんのところで、一晩1時過ぎまで話しましたが、スワタさんも同様でスワタさんとしては要するに私たちが気ちがい扱いされはしないかと思って、心から心配してくれるわけで、それがよく分かるだけに全く困ってしまって遂にやむなしジャヌ-は次の機会としてまず登れそうな山を、トレーニングという意味で行くことに考えを変えて帰りましたが、さて帰ってもよく眠れません。二日間考え抜いたあげく、やっぱりジャヌ-にしよう、たとえ気ちがい扱いされても構わない、人はごまかせても私自身を偽ることができない、私はそういうふうに生まれてきているんだなと諦めて、はっきりとジャヌ-に決心しました。今やジャヌ-に対する大義名分を文章にすべし(もしもジャヌ-が穂高にあればむろん黙ってゆきますが、これを明らかにしなければ計画そのものがつぶれてしまう可能性が十分あるからです)努力しております。
 貴兄には記すまでもありませんが
 1. 登れるにきまっている(特別の事故は別として)山、そこになんら新しさのないもの岳界に貢献しない所には私自身の金だけならともかく、貴重な外貨を使っては、行く気がしない。また努力という一体だれがそれを証明したでしょう。
 2. ジャヌ-は不可能という、一体だれがそれを証明したでしょうか。南面からのディ-レンフルトのウェ-ジピ-クの登攀はガスがかかっていた筈、写真があるだけです。またその写真でもどこが不可能というのでしょう。スワタさんは言われる(スワタさんには私としては判ってもらえるつもりです)ヒマラヤは雪氷期のみ登攀可能で岩稜は不可能だと、従って誰も今迄に行ったものがない、首も速く回せないような高度でどうして岩が登れるかと言われる、非常にもっともなことですが、しかし今や雪稜では世界最高峰が登られてしまった。次は岩稜だと思うのです。この課題に必ずいつかはなると思うのです。(モンブラン等が登られ次第にマッターホルンに進んでいった)バウワ-はカンチで7000の高さで酸素なしに氷のトンネルを掘っています。私たちは無論酸素を持って行きます。酸素もいつかはスイス隊のようにボンベではなく化学変化で発生する軽いものが出来てくると思います。これを背負って登って見たとして全く不可能と誰が言えるでしょう。(トップが登れば縄梯子をおろす)私は思うのです。バウワ-たちの、あの小さなグループによるカンチの攻攀、今から考えれば気違い沙汰です。しかし私たちには例えばマナスルが登られたとしても、エベレストより低い山でエベレストより容易といわれるルートを通って(こういうルートのあったことは幸運ですが)服のポケットの裏の色までエベレストと同じにして登ったところで、何かプラスがあるでしょうか。マネがうまかったというだけではないでしょうか。おそらく登ればおれたちはアンナプルナより高いところへ登ったからエルゾ-クより偉いことをしたんだというかも知れません。一般の人たちはそれでごまかせたとしても私たちはごまかされません。勿論真似もしないよりは良いには違いないと思うのですが、そこは私たち内心に燃える不敵な血の匂いがしません。イギリスは誰も達したことのない高度に、30年の努力をして恐るべき問題の解決をしたのです。30年前のエベレストのパーティーはそれこそ気違い沙汰だったのです。私たちがもしも30年続けたとしたらまさかジャヌ-でも登れないことはないと思うのです。(もちろん日本でそれが出来る筈はなく登るのは外人でしょうが)
 しかし、ジャヌ-がどこが登れないか、どのように努力してどこが解決できなかったかということが分かるだけでも、価値があると思うのです。
 私たちには、どうも日本人は眼前の成算が付かなければやらないえせ科学者だと言いたいのです。スコットにしても、あのフィリピンで死んだマゼランにしても、初めて太平洋を横断するのに確かな成算があったでしょうか。それらの気ちがいに比べれば我々の気ちがいは、気ちがいの仲間に入らないと思うのです。我々は我々なりにあらゆる力を絞って科学的な可能性を考えているつもりなのです。写真で不可能だということが納得できれば、決して行けと言われても行きません。可能性があると思うからやってみたいのです。ましてや8000m級を狙って失敗したパーティーが腹いせに登るような山、ふもとを通ってもだれも見向きもしないような山に私は行きたくないのです。たとえジャヌ-のトレーニングだと私自身に言い聞かせても、私は夜寝られないのです。スワタさんの私を思ってくれる気持ちが分かり過ぎて、とにかくジャヌ-をあきらめさせろと言った切ない気持を、貴兄は分かってくれると思います。私は今その点では誠にせいせいして(スワタさんに手紙を書くまでは誠にせいせいしませんが)仕事をしています。
 次に仕事の方は
 1. 外貨が急に難しくなった(ジャヌ-にしたので)と思いますので、すなわち、JAC―体協―外貨 槇議委員会のルートではちょっと望みがないのです。須賀さんにJACとの連なりを考えてもらっているのですが、須賀さんの師、黒田さんもJACとは仲が悪いとのことで困るわけです。それで科学研究の線で文部省の枠をとることに、この計画の成否の大部分があると思うのです。それで大学としての組織を強力にしなければ駄目だと考え、関係のありそうな教授を会員にしユネスコ会長の学長を会長にしようとして、また後援会長に本学出身の大臣加藤鐐五郎氏にしようと目下その嫌な努力を続けております。
 教授が多いのでなかなか会えず時間が刻々とたってゆくのが悔しいです。ここ十日以内に発会式に持っていく予定です。上述のジャヌ-のことは須賀さんはすぐ判ってくれました。また隊は、須賀、石岡、石原、上岡、松田、小山、傘木、(科学科名大3名)の線も、むろん了解してもらいました。隊員の選出は評議会ではせず実行委員会でする予定にしておりますので、実行委員は私たちだけですから問題は起きそうにないと思います。また、いかなる問題が起きようとも、頑張るつもりです、でなかったらジャヌ-へ行く資格はなし、私は一切を放棄するつもりです。(問題は名大学生と地元の山岳団体です。有名な熊沢氏がおりますので。しかし方々情報を探っても、現在まで私の線を支持する者だけです)…尚、小山・傘木さんのことは、誰にも言わないで(資金外貨が少なくなれば縮小せざるおえませんので)いただきたいと思います。発足会が終われば会則(目下案の形で出来ております。隊員選出は『但し、隊員は会員外からも選出することが出来る』となっています)を送ります。尚、資金外貨により、どれだけ計画が縮小されるか知れませんが、その場合は、私が隊長の可能性がありそうです。(隊長は実行委員、本学のみの互選となっていますので)
 資金は今の考えは(中尾さんの話によれば始めから新聞社に交渉せず、立派な計画を作って進めれば、必ずスポンサ-はつく)隊員10名、特派員1名、総額1000万(内外貨400万)半分を新聞社に頼るとし、半分を中京財界に求めるつもりです。可能性がないことはないと思っています。外貨は文部省300万を目標とし、これが取れれば体協でも100万くらい出しはしないかと思うのです。これは誠に難しいところで、ようは学長の政治力と思うのです。
会が成立すれば直ちに動き出すつもりです。尚、先発はできないと思います。また、私が先発を出したかった理由は、人に気ちがい扱いされるのを、先発隊の派遣によってカバ-しようとしたのですが、今その必要はなくなりました。秋を目標にします。
 ヒマラヤンクラブに手紙を書いていろいろ聞きたいと思いますが、中野君(クラックへ行った)に書いてもらおうかとも思いましたが、あるいは貴兄の方が良いかと思い一応貴兄に頼みます。出来なければこちらで何とかしますが、別紙A,Bは私がちょっと考えたところですが、不必要なものや抜けている物が多いと思います。よく考えて補足して作ってくれませんか。出来たものはなんでしたら速達で返してもらった方が良いかも知れません。(中尾氏の話では、山の会MNSヘンダ-ソン宛の手紙が下手で笑われたそうです。中尾氏も見て下手だったと言っておりますが)こちらで一応英語の先生に見てもらってもと思います。(航空便で出したい)
 〇 細かい点はそれほど急ぐ必要はないようですが、一応間違いのない計画を作らねばなりませんので、例えば、装備・食糧等の重量計算表、梱包方法(雨が降ったらどうなるか)等、入国手続き申請のヒナガタ等も、もし比較容易に分かるようでしたら調べてください。
 2月にマナスルという本が出て、何もかも詳しく出ているそうですが、それが出れば一層楽になります。
 〇 要するに発会式が成立すれば
 1. 立派な計画書を作って…これにはシッキム入国状況、少なくとも図の予定ル-トについての可能性。その他一応ヒマラヤンクラブの返事を得ておけば自身がつく訳です。計画書もそれだけ信頼度がある訳です。
 2. 後援会を結成して募金に乗り出し、同様に新聞社を決める。
 3. 文部省の外貨の交渉
 4. ネパ-ル、インドへの入国許可申請
 ちょっと考えても判ることですが、名大中京等を加えない予定なので仕事を誰にも手伝ってもらえず、全く私の一人舞台です。これが一つのガンになりはしないかと心配しています。
 では、お願いします。 ニュ-ギニア
(九州の岩稜会員上岡氏の通称。陸軍に招聘され太平洋戦争末期ニュ-ギニア戦線での数少ない生き残りの一人であった)によろしく。

 尚、最後の岩場で使用する特殊の梯子を考えています。設計が出来たら、早速試作して御在所で試みるつもりです。

 ① ネパールのヤルング氷河、またはカンチェンリバ-附近を行きたいが、もしネパール政府のパ-ミッションをとったとしてインド及びシッキムの通過は許可されるか。許可されるとすればその方法パ-ミッションまでの大略の期間…前期の方法がまずければその方法。
 ② キッシムの入国が難しいと聞いているので、もし入国が許可されないとすれば、図のル-トをとおることについて不都合な点があるか。あるとすればどの点か。またそれを解決するにはどうすればよいか。またほかの道はないか。
 ③ もし、キッシム入国許可の可能性があれば、ヤルング氷河に入る最も適した道はどれか。
 ④ もし、上記のうち可能な道を通るとして、何か困難なことはあるか。全く水がないなど、そこにはバンガローのようなものはあるか。また、ロヤング氷河まで何日かかるとみてよいか。また、人夫(シェルパを除く)の宿泊にはこちらで何か考えねばならないのか。食糧については全期間考慮しなくてよいか。考慮するとすれば何を準備すればよいか。
 ⑤ 道案内、通訳、エスコートのような人は必要か。また、得られるか。(シェルパが知っておればよいが)
 ⑥ 動物の通れる道を通る場合、荷物運搬は動物と人夫とどちらが良いか。(安いか。動物は一日いくらで、どれだけ担ぐか)また、動物がいけなくなった場所まで来て、人夫を集めようとして集まるか。また、帰りの人夫はどうなるか。
 ⑦ 必要な経費の細目、人夫費、シェルパ費、汽車費(カルカッタ→ダ-ジリング)また、カルカッタ、ダ-ジリングでの一般遠征隊としての滞在費。やる仕事の日数。
 ⑧ 同のネパールの地図で、1934年の地図、何か間違っていて困るような個所はないか。
 ⑨ 晴天の日を利用してヤルング氷河周辺を飛行機で偵察したいと思うが、可能性はあるか。(エベレストでは登頂直後に飛んだらしいが)可能性ありとすれば費用はいくらか。また、何か条件はいるのか。同乗したいのは2,3名。
 ⑩ ネパールへの同地方登山のための入国許可申請を出せば、貴殿はそれが許可されると思われるかどうか。また、その理由。

 
以下メモ
 1) 稜線がギザギザでないことは、向う側の傾斜が急でないかも知れぬ。
 2) ヒマラヤは主に南面が急で北面がゆるい。
 3) 最後の岩峰の縞が左下がりであるため、向う側よりゆるいかも知れぬ。 

 以上が、名古屋大学ヒマラヤ遠征会の発足と、父の計画の全貌である。
 なんと!虫の良い‼これでは、名古屋大学ヒマラヤ遠征会とは名ばかりで、実際に遠征するのは、ほとんど岩稜会員である。それも、とんでもなく難しいジャヌ-を的に絞って、周囲からの反対に耳をかさない。父の頑固さが伝わってくる。しかし、見方を変えれば屏風岩の時もそうであったように、ジャヌ-を征服するための絶対の条件として、遠征隊メンバ-は石原氏や松田氏を含む精鋭でなければ登れないと心底思っていたのだろう。そして、自分はブレインとして同行しようとしているようだ。
 名大学長を巻き込んでのこの遠征は、費用の目途も立たず、その上来年早々に起きる大事件で頓挫することになる。
岩稜会と『穂高の岩場』著作の1年
 この年7月に、長越氏から朋文堂社長の新島氏が「穂高の岩場を紹介する解説書を出したいので、是非、岩稜会にお願いしたい」と申し入れがあり快諾する。
 この年岩稜会は、無積雪期は父が中心となって、この仕事にあたることになり、積雪期は登攀リ-ダ-の石原一郎氏を中心として未踏の岩場の開拓にあたることとなった。

 昭和28年12月24日~1月6日 コブ尾根合宿 参加:11名(父不参加)
  厳冬期のコブ尾根は未登攀であることが判り、冬期合宿をコブ尾根とした。
  昨年9月には、その合宿のために荷揚げも行った。
  コブの下でテントを張り、コブ尾根を越えて前穂高岳頂上をねらったが、悪天候にはばまれて登頂を断念。稜線へ出て天狗のコルを下る。

 2月20日~22日 御岳 高井氏・石原國利氏・大井氏

 4月24日~5月7日 穂高合宿 参加:12名(父・五朗叔父参加)
 ☆北尾根七・八のコル~四・五のコル
  石原國利氏・澤田氏・五朗叔父・南川氏(三重大)
 ☆北尾根四・五のコル~前穂高~吊尾根
  石原國利氏・澤田氏・南川氏
 ☆北尾根四・五のコル~前穂高~吊尾根
  石原一郎氏・五朗叔父
 ☆前穂高北尾根四峰正面北条新村ル-ト
  石原一郎氏・松田氏
  ※石原氏の調子が悪く引き返す
 ☆岳沢~コブの頭
  石原兄弟・松田氏・今井氏・奥原氏(前西糸屋主人、岩稜会員)
  ※東京農大遭難救助

 5月 谷川岳 シンセン尾根~マチガ沢 石原國利氏・秋山氏
  
 6月  ☆滝谷クラック尾根 石原國利氏・傘木氏
    ☆滝谷ド-ム中央稜 同上

 7月19日~28日 北岳合宿(三重大山岳部)
  三重大の北岳合宿に、石原國利氏が参加し、北岳バットレスを澤田氏・五朗叔父と共に登る。
  ☆バットレス中央稜 石原國利氏・澤田氏
  ☆バットレス第一・第二・第三・第四尾根 石原國利氏・澤田氏・五朗叔父

 7月24日~28日 大雪山(第9回国体) 高井氏・森氏

 7月26日~8月16日 穂高合宿 参加:10名(父参加)
  奥又白~北尾根五・六のコル~涸沢に入る
  滝谷・又白・屏風等、困難なル-トを『穂高の岩場』の写真撮影を兼ねて登る
  ☆前穂高北尾根四峰正面甲南ル-ト 石原兄弟・澤田氏
  ☆前穂高岳東壁 同上
  ☆滝谷第一尾根 松田氏・室氏
  ☆滝谷第一尾根 石原國利氏・澤田氏
  ☆滝谷ド-ム中央稜  石原兄弟・澤田氏
  ☆滝谷タンレンル-ト 石原兄弟・澤田氏
  ☆滝谷第四尾根 石原一郎氏・長谷川氏
  ☆滝谷第四尾根 父・石原兄弟・澤田氏
  ☆屏風岩第一ルンゼ 石原兄弟・澤田
  ☆明神岳西壁Bルンゼ 石原國利氏・澤田氏 
   ※明神五峰赤壁登攀中の東大遭難救助

 9月22日~27日 岳沢合宿 参加:8名(父・五朗叔父参加)
  『穂高の岩場』の写真撮影を兼ねて、くまなく登る。
 この合宿の後半、ものすごい暴風雨となり逃げ帰る。海では洞爺丸が遭難し、山でも遭難が続出した。
  ☆明神岳西壁AB尾根 石原國利氏・森氏

 10月 ☆前穂高北尾根四峰正面明大ル-ト 石原國利氏・秋山氏(青山学院大)

 10月30日~11月3日 明神岳
  ☆ひょうたん池~徳本峠 石原國利氏・今井氏・滝川氏(三重大)・常保氏(三重大)

 12月22日~昭和30年1月 奥又白合宿 参加:8名(父不参加)
  ※冬山ベ-スキャンプ設営…石原國利氏・澤田氏・五朗叔父・南川氏(三重大)


 上記に記した登山記録は、昭和62年5月に岩稜会が発行した非売品『岩稜』の記録による。これまでの章に記した岩稜会の山行記録は全てこの本による。この本についての詳細は発行年度に掲載する。
 父は、五朗叔父の岩登り技術を岩稜会の中ではせいぜい中の下くらいに思っていたが、この年の暮に、名古屋の自宅を訪れた五朗叔父は「藤内壁のジャンダルムのトラバ-スができた」と報告した。ジャンダルムのトラバ-スは藤内壁のル-トの中でも難しいル-トであったので、とても喜んで二人で祝杯をあげた。嫡男を持たない父は、17歳も年の離れた末の弟を我が子のように可愛がり、幼いころから山へ連れて行った。その弟が岩登りに優れていることが判り、どんなに嬉しかったであろう。姉の言によれば、この頃五朗叔父は名古屋の家に始終訪れては、父と山の話をしていたと言う。
 この年『穂高の岩場』の作成資料として、建設省地理調査所に穂高岳の空中写真の交付を申し出て、9月21日に交付を受けている。その写真と空中写真立体視眼鏡(昭和26年にアメリカ軍使用の物を入手)を使用して、穂高の岩場の詳しい調査も行っている。


 以下にこの年に作られた昭和30年度岩稜会計画書を掲載する。
 この計画書の中で重要なことは、ナイロン製品の登山用具の購入に踏み切っていることだ。赤で矢印を付けた頁に記されている「昭和30年度計画の説明」部分には、<ナイロンテント・ビニ-ルコ-ティングのナイロン布地にて作られたオ-バ-ズボン、ヤッケ、オ-バ-シュ-ズ、オ-バ-手袋>の購入についての記載がある。
 ヒマラヤ遠征を志した父は、極寒の山で使用する製品についても勉強している。その結果以上のようにナイロン製品を購入することにした。
 特出すべきは下の赤丸の部分で「ザイル祭りの件 ナイロンザイル購入につき行います。日時は追ってお知らせいたします」と言う部分だ。ナイロンザイルを使用する場合の注意事項などを「ザイル祭り」と言う名を付けた勉強会を開いて、会員に徹底させるようにしたのである。命に係わる大事なザイルなので、新素材のナイロンザイル使用に関しては気を使って事故防止に努めていたのだ。
 12月9日に中京山岳会副会長で、名古屋の運動具店の店主だった熊沢友三郎氏の勧めで、8ミリナイロンザイルを80m購入する。右のメモは、この年の父の手帳に記されていたものである。「4) 8mmザイル80m 9600円 12/9持帰り」とある。このことについて父はこう語っている。
 「これまで使っていた12ミリの麻ザイルが更新時期にきていたので、麻ザイルより柔らかく、かさばらず扱い易い上に、1030Kの重さまで耐え、南氷洋の捕鯨にも使われていると熊沢さんが推奨するナイロンザイルを買うことに決めたんだよ。岩稜会の仲間は買ってきた8ミリのナイロンザイルを見て『こんな細いザイルが本当に強いんですか?』と質問した者もいたが、保証付のザイルで、保証のない物よりも二割ほど値段の高いザイルで、その販売元の東京製綱と、熊沢さんの説明を信用して高価なナイロンザイルを買ったんだ」
 この重大な決断を、父はこの時そんなに重要な事とは思わず、優れていると言われるナイロンザイルを岩稜会の冬期初登攀のために使うことは、当然のことだと思っていた。
     
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 左の新聞は昭和29年1月21日付の中日新聞である。「マナスル登山再挙を語る」の中に日本製ナイロンザイルが一番良かったと記されている。

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名古屋大学学生部での仕事
 昭和27年末に名大学生部に勤めた父は、ここ2年間程をヒマラヤ遠征の夢ばかりを追っていたわけではなかった。
 戦後多くの国民は生活にあえぎ学生も勉強どころではなかったので「優秀なる学徒にして経済的理由により就学困難なものに対し、学費の貸与、その他育英上必要なる業務を行い以て国家有用の人材を育英することを目的とする」という育英会法に多くの学生・生徒が殺到した。その採用は学校に任されたが、最も大切なのは公正な採用であり、そのためには合理的な採用基準(推薦基準)が必要であった。ところがそのような基準の作成は困難であり、結局各学校が実施した基準には多くの矛盾があった。この解決のためには、まず推薦基準の基礎となるべき理論を確立し、次にそれに基づいて具体的な、学校の事務担当者によって実行可能な、推薦基準が作られねばならないと父は考えた。そこで約1年かけて考案し、この年の9月に『奨学生の推薦基準について』を173頁からなる印刷物にまとめた。これは基礎理論を微分方程式で示したものである。この印刷物は日本育英会によって十分検討され、父はヒヤリングのため上京し、結局、日本育英会はこれを基礎として当時の推薦基準を作成し実施した。
 左の冊子の表紙をクリックしていただけば、その内容をご覧いただけるが、難解なため父は、育英会など各地で講演を頼まれ説明して歩いた。
 父の想いが伝わると思うので、この印刷物の「まえがき」と「あとがき」部分を転記する。


<まえがき> 
 奨学生の希望者が益々増加しつつある時、奨学生の採用をできるだけ正しく行うことは、日本育英会(以下単に育英会という)の事業のうちでも最も重要なものの一つと考える。もし奨学金を実際には必要としないような学徒が採用されて、奨学金がいたずらに遊興に使用されたり、成績の芳しくないものが採用されて、学生間に面白からぬ雰囲気ができたりすれば、年間34億からの予算をともなう育英会事業の成果は、それだけ減殺されることになる。これは、採用後の事務的操作がいかに巧みに行われても、これを解消することは困難であると思われるからである。それならば採用の根本となる推薦は、現在合理的に行われていると言えるだろうか。本来ならばその重要性にかんがみ、育英会がリーダーシップをとって真に合理的な推薦基準を作成し、それに各大学の特異性を加味したものをもって、各大学の基準とするのが妥当な方法であるように思われる。
 勿論、育英会がこれらのことを等閑に付しておられる筈はなく、年度ごとに改良される推薦基準、推薦調書、奨学生願書を見ても明らかの如く、常に並々ならぬ努力を続けられているのである。
 しかしながら合理的な推薦基準の作成ということが困難であるため、育英会においても、まだ自信を持って進めるに足るものを作成するに至らず、各大学の基準が不満足なものであることを知りながらも、これを認めなければならぬという状態にあるのではないかと思う。
 一方各大学においても合理的な推薦基準を作成しようとする意欲は無論強烈で、各地区での研究集会では、その度毎に問題にされ、熱心な討議が交わされているのである。
 今ここで述べようとする基準はもちろん理想からは遠く、しかも未完のペーパープランに過ぎない。即ちこの種のものに最も重要な、実際に施工をしてみた上での修正という段階を踏んでいない。従ってこれが、どれほどの意義を持つかということは判らないが、もしも御参考になる点があって理想的基準作成への一助ともなれば望外と思うのである。

<あとがき>
 一般に社会主義的な制度というものは、たとえ趣旨は優れたものであっても、その運営がまずい時は、弊害のみが大きくなって、むしろ無きが優るという結果に陥りやすい。
 奨学制度もまた然りであって、採用が正しく行われないときは、もっとも純粋であるべき学生の胸中に「社会とは正直ものが馬鹿を見るところだ」という観念を植え付けてしまうことになる。少なくとも教育の場においては、このような制度も明朗に行われているということになりたいと心から希望するのである。
 私も最初は、推薦基準という空中楼閣的な存在を、何とか根の生えたものにしようという大それた考えのもとにとりかかったのであるが、結果はいたるところで独断に陥ってしまった。これも菲才の故で致し方がないが、今後とも先輩諸兄のご指導のもとに、より完全なものを求めて励みたいと考えている。
 尚末筆ながら、本案を作成するにあたって貴重な資料を快く御送付くださった多数の大学、心から御指導、御鞭撻いただいた本学学生部長、教務課長並びに関係職員各位に対し、喪心感謝の意を表する次第である。              文部事務官 石岡繁雄
名古屋市昭和区への移住
 多忙のため鈴鹿からの通勤が不可能になった父は、名古屋市昭和区高峰町にあった名古屋大学公務員宿舎(山手通宿舎)に入居する。右の書類は入居者として決定した時の物である。
 その宿舎の入居者として書かれている畑田先生や長沢先生とは、住居を移してからも親しくお付き合いしていただいた。
 原田先生宅には、私と数日違い(2月26日生)で生まれた「たかちゃん」と言う男の子がいて、奥様と母は子どもを預け合ったり、交互に買い物に行ったりして助け合い、たかちゃんと私は姉弟のように育った。そして奥様と母は生涯の友となった。
 その頃のこの場所は、キツネやタヌキが出るほど田舎で、現在ある第二日赤病院(八事日赤)は、人気のない場所を選んで建てられた結核病棟であった。交通の便も悪く、買い物に行くにもバス停4区分(川原まで)も歩かなければならなかった。
現在の昭和区の八事日赤病院付近の地図
当時の官舎と名古屋自宅の位置を示す


 官舎の前にて

左より 父・母・おんぶされている私・姉・祖母・
稲垣達氏(祖母の妹の子で、岩稜会員)
 官舎の部屋はとても狭くて(4畳一間)親子4人で住めなかったので、幼かった私だけを連れて住み、姉は鈴鹿の家に残し祖母が面倒をみた。下の葉書は母が姉に宛てて書いた物だ。

 父は、姉と一緒に家族揃って暮らすためにも、早く自宅を持たねばならなかった。
 当時の八事日赤附近から杁中に至る土地の地主は、大きく分けて香積院というお寺と、南山大学、某建設会社が持っていて、その中でも香積院は沢山の土地を所有していた。その理由は、戦後土地の相続税が払いきれなくなった人々が、その頃二束三文の値打ちしかなかった土地をお寺に寄付したためと聞き及んでいる。今でも香積院は何千軒もの借地を所有している。
 その香積院の土地を鈴鹿の家の反対を押し切って、昭和区山手通3丁目3番地に、50年契約で167坪を借り受けた。通常香積院の土地は20年~30年の契約期間であったようだが「その頃、買取れるほどの契約金を支払ったから期間を長くしてもらえたんだよ」と父は言っていた。買い取らなかったのは、もちろん鈴鹿の家が許さなかったからだ。家は新築ではなく、鈴鹿の家の南に建っていた物を移築した。鈴鹿の家の者は、あくまで名古屋に住み着くことがないように配慮してのことだった。
 現在の山手通近辺は、名古屋大学・南山大学・中京大学・名城大学を有し、文教地区として名古屋では一等地となっている。特に山手通に面した民家は現在では一軒もなく、高層マンションなどが建ち並び繁栄している。もし父がこの土地を買っておいてくれたなら、大変な資産だったことだろう。今では、その土地も香積院にお返しして、駐車場になっている。
 当時の名大の東山キャンパスは工学部と理学部があったが、辺鄙な場所であったため、学生諸氏は下宿する場所が遠く困っていた。学生部に勤めていた父は、名古屋に自宅を持つことになって、少しでも学生諸氏の役に立つようにと名大生専門の下宿屋を母屋建設の後で建てた。下宿屋は母屋の東隣にあり、四畳半2部屋と四畳1部屋の平屋であった。
母と私
たかちゃんと私


 建設中の名古屋自宅(北東側より撮影)

 母屋の二階建ての部分は、鈴鹿の家を移築して、手前と左横に突き出している平屋部分は建て増しした。
 父が設計した名古屋の家は、とても住みやすい家であった。
 空き地に座っているのが母で愛犬ジャヌ-を抱いている。立っているのが私である。

上の写真をクリックしてください
名古屋自宅の見取り図と写真がご覧いただけます

 
この家に住み始めたのは、昭和30年の5月頃のことであったが、ここに掲載する。
 父が建てた家の玄関

 二階に布団の干してある部分とそれに接続する平屋が母屋であり、右端手前にある平屋が下宿である。
 背景に見えている丘の頂上から北にかけて現在、南山大学がある。
 母屋は、二階建ての一階部分に2部屋(客間・居間)と建て増しした部分に父母私寝室と、台所・風呂・トイレがあり、接続する平屋部分は洋間兼父の勉強部屋、そして玄関があった。
 二階は2間で、白い布団の干してある側に面した部屋が客用寝室で、隣が姉の部屋であった。(見取り図を参照されたい)
 下宿には初代下宿族の江口氏・伊藤氏・熊崎氏が入られた。
 風呂は下宿族と兼用で、順番に呼んで入ってもらっていた。
 下宿生の3人の方々はとても優秀で、父の仕事を手伝ってくださったり、まるで家族のように暮らした。
 この下宿はとても評判が良く、入居希望者が続出したので、写真の左空き地部分に二階建ての6人入れる下宿を建て増しした。その建物は、鈴鹿の家の蔵を移築した物であった。
 これ以後、下宿は私の代(昭和47年二代目下宿屋おばさんに就任)になっても続き(平成2年まで)家族の様な伝統は代々受け継がれた。
 
 やっと一緒に住めるようになった姉と、畑田先生からいただいた愛犬ジャヌ- ジャヌ-(ヒマラヤの山の名を父が付けた)はオスのスピッツで真っ白なとても綺麗な犬だった。
 2歳になった時、お風呂に入れてピカピカに綺麗になり、家の南の坂道を誇らしげに胸を張って歩いて行ったきり帰って来なかった。あまり綺麗だったので、誰かに連れて行かれたのだろうと家族で話し合った。

愛知川ハイキング 
伊勢谷小屋にて

前左より 岩稜会新井氏・澤田氏・父・姉・母・私・下宿生、伊藤氏
後左より 下宿生、熊崎氏・江口氏
 
次に、この年に起きた2つの事件を掲載する 
 11月19日
 慶応大学山岳部使用の11ミリナイロンザイルが、富士山での氷雪上スリップ停止訓練中に切れかかる。
 このことは、ナイロンザイル切断事故発生後に調べて判ったことである。右の手紙は石原國利氏が聞きに行って、父宛に報告した物の2頁目であるが、図が記されているので参照していただきたい。
 以下に國利氏からの報告文を転記する。


 
<余白部分記載事項(父記す)>
 東京都青梅市青梅 田辺寿氏に石原国利が聞く
 <1頁目本文>
 慶応大学山岳部の場合
 これはナイロンザイルのテスト自体を目的としていたのでは無く、氷雪上でのスリップ制止の訓練中、たまたま発見せるものである。
 ●ザイル購入の事情
 同山岳部では2、3年前より11ミリナイロンザイルを使用していたものであるが、昨年5月、新たに購入することとし、マナスル使用の結果などを参考とした上、9ミリのものを250m 直接東京製綱に発注、蒲郡工場で製綱、6月に入手、その中から40mのものを作り、去る11月富士山に持参した。別に作ったものは夏山でも使用したが、その時使用せるものは全然初めての使用である。
 ●使用前後の気温その他の状況
 当日初めてリュックから取り出して使用したのであるが、その日は曇りで気温高く(夕刻で-4℃) アイゼンなしで頂上を往復できた。頂上へ行く途中、8合目の少し下(大沢?)の地点で滑落訓練を行った。時刻は昼少し前、湿雪。傾斜は30度くらい、雪の固さはアイゼンのツアッケ
(アイゼンの爪)が快適にきく程度。
 
<余白部分記載事項(父記す)>
 なぜ1/3切断で止まったか?3回とも同じ場所か?○東京
1字不明 上大学 滝谷の件
 その時、墜落者のショックはどのようであったか?従来の麻ザイルではザイル切断時には人体の死因だというのが定説。
 <2頁目本文>
 ●テストの模様
 (1)先ず、静確保の訓練をしてみることとし、確保者はザイルをブレード
(ピッケル頭部の尖ったほうを【ピック】、平たいほうを【ブレード】、柄を【シャフト】、柄の先端を【スパイク】【スピッツェ】【石突き】という。ピッケルと手首や体をつなぐベルトを【リストループ】【ピッケルバンド】という)の付け根に一巻きし、さらにシャフト上で左手に一巻きして、ピックを雪面に突き刺して待機した。トップは約3m登り約6mを滑落した。その場合、突き刺したビックは約一尺の雪をかいて静止。ザイルを巻いた手には、手が痛い程度のショックが伝わった。3度目のテストが済んだ時(テストの個所が同一場所という可能性は殆どない。練習の都度、動いている)ザイルの異常に気がついた。それは、ブレードの表面内側の部分に接していた部分が2カ所ともザイルの約1/3の深さ切れていて、切れた部分の中、ザイルの表面に近い部分約1ミリ程度の切れ先は解けて互いにくっついている。溶けた部分は焦げた色ではなくて、白色でちょうどロウを溶かした感じである。それより下のザイルの中心に近い部分は、普通の切れ口と同じで溶けていない。使用せるピッケルはカドタの古い物で、ブレ-ド・ピック共角はたっていない。
 <3枚目本文>
 (2)次に動確保を試みてみた。その方法は、今度はピックの付け根にザイルを一巻きし、確保者側のザイルは手に巻かずに、シャフトと一緒に単に上から握っただけである。その他の条件は(1)に同じ。結果は次の様であった。前と同様約6mの滑落に対して、今度はピッケルは静止したままで、ザイルが1尺ないし2尺繰り出されただけで制止し、ザイルに別段の異常は認められなかった。
以上。
 この時使用したザイルを約1mもらって来ましたので別便で郵送します。

 KO大学山岳部…東京都港区三田KO大学内
 東雲会関係
  堀仁…東京都目黒区中目黒2-570番地 tel(49)0510
  大高さん…東京都港区芝車町35番地 tel(45)1820

 
父が調べた中で、日本におけるナイロンザイル切断の最も古い報告として興味深い。
 12月17日
 谷本先生からの父宛書簡
 丹生川村山小屋を名大山岳部の現役が、11月21日に火事を出して焼失してしまったことについての手紙である。右の封筒をクリックしていただけば、内容をお読みいただけるが、概略を記しておく。
 名大山岳部現役の過失は、須賀先生に責任があるように思われて、須賀先生はとても気にして見えるとの事だが、そんなことは誰も思っていないので気にしないで欲しい。今、丹生川村の村長に謝るために努力している。丹生川村の小屋は夏期診療所としても使用しているので再建のお願いをしたい、などと書かれている。
 余談だが、文中の「大北君」とは、大北威先生のことで、谷本先生や父の山岳部の後輩である。元広島大学原爆放射線医科学研究所長、名古屋医療センター名誉院長でもあった方だ。氏はIPPNW(核戦争防止世界医師会議)の第一回会議に日本から出席された唯一の方だ。このIPPNWはノ-ベル平和賞を授与されている。このホ-ムペ-ジでは、来年のことになるが、五朗叔父遭難時に現場に駆けつけて、國利氏や澤田氏の凍傷の手当てもしてくださっている。また、平成7年に母が心筋梗塞で心臓の大手術を受けた時にも、大変お世話になった方でもある。母の命の恩人と言っても過言ではない。 

 
 昭和29年に、父が執筆依頼を受けた山岳雑誌
 5月1日発行
『岳人』73号


父著「岩登りの練習法」
金坂一郎氏・伊藤洋平氏・松田武雄氏の文も掲載されている。
 6月23日発行
『夏山総合講座・テキスト』

6月25日~27日に行われた講座のテキストである。講師には須賀先生と谷本先生と父の名前もある。父は「登山技術」の文を書いているが、後に書き込みやメモの貼り付けを行っている。
 8月1日発行
『岳人』76号


父著「明神山塊をめぐる岩場」
8月1日発行
『山と渓谷』182号


 岩稜会著「槍・穂高の岩場」
 岩稜会著となっているが、ほとんどの場合父が書いている。右隣の『山と渓谷』に2つの文が載ったと思われる。
8月1日発行
『山と渓谷』182号


父著「岩登りの初歩について」



 
雑誌の表紙、または頁をクリックしてください。全文お読みいただけます。
 右の新聞の座談会は、先に書いた運動具店店主の熊澤氏も出席されている。
 熊澤氏は座談会の最後にこのように語る。
「合成繊維、つまりこの場合はナイロンですが、今や登山装備の花形ですね。強いこと、軽いこと、また保温の点ではまずこれを越すものはない。しかし値が高いのが難。また今のところ防水が不完全なのが残念です。
 ところでザイルですが、これはナイロンに限る。目方も軽い。かさばらない。おまけに質も日進月歩している。映画で使ったのより今のはまたうんと質が良い。冬山を征服しようとする人には絶対勧めたい。」
 最後に父曰く「ナイロンは伸びるのが強み。そしてかえって何倍もの強さになる。衝撃にも強い。ナイロンザイル8ミリで麻のザイル12ミリと同等の力がある。しかも四割も軽くてすむ。」
 この座談会によって、父のナイロンザイル信奉は動かぬものとなった。
 青竜の章(昭和24年~29年)の終わりにあたって

 岩稜会と共に、山への夢を成就させていこうとする父の5年間でした。どうしてそれほどまでに山への思いが強かったのかを示す文章が昭和24年9月25日発行の初版本『屏風岩登攀記』の「自序」に書き記されています。まずは、その部分を転記したいと思います。


 なぜ登攀不可能といわれた直立700メートルの大絶壁が登れたのであろうか。それは純粋な友愛にもとづく協力、現代の社会にあっては、ほとんど登山界だけにしか成り立ち得ない共同社会、自分の生命が直ちに他人の生命であり、目標に向かっての他人の一歩の前進が直ちに自分の一歩の前進であり、一個の自分がそのまま数個の自分へ拡大し発展した社会。そこにおいて初めて発揮出来る技術と斗争心こそが成功へのカギであったと確信した。かえりみて成功の原因がそこにあったことに思い至ったとき、始めて私はこの手記を公にすべく筆をとる気になった。すなわちこれは単に私たちの誇らかな登攀記ではない。か細いながらこれは人間への賛歌の一節である。屏風岩の正面岩壁に対して私たちが小さく一時的かつ実験的ながら持ちえた社会、そのような社会がもし現実の生活のすべてを包含する規模で持ちうるまでに人間が進歩した暁を想う。「すばらしいもの」それはつねに「人間」であらねばならぬし、あるに違いないという確信を屏風岩は私たちに刻みつけた。その岩壁に私たちが刻みつけた一挙手、一投足の足どりの代償として―。

 父は、15歳の頃の純粋な夢を持ち続けた人で、生涯、夢見る少年のようなところがありました。
 私は、父の遺した膨大な資料を目の当たりにして、一時期は茫然自失となってしまいました。どうしたら父の実像と結びつけて読み解けるか初めは皆目見当もつきませんでした。父を単に屏風岩の初登攀を成し遂げた人、ナイロンザイル事件を闘い抜いた人と言うだけに留めず、できることなら多くの資料から真実を突き止めて、父の全てを浮き彫りにするホ-ムペ-ジを作成したいと願って、私の正直な想いを資料と共に掲載させていただいています。
 この節目の年の最後に、亡き祖母や母、姉や岩稜会の方々などの証言も基にして、この年までの父の性格を記すと、次のようになるのではないでしょうか。
 ナイロンザイル事件勃発までの父は、前章までに記しましたように、頭脳明晰で金銭的にも恵まれ、独善的で正義感の強い「お山の大将」のようなところがありました。古い家長制度を深く受け継ぎ、家では暴君であり、気に入らぬことがあると、ちゃぶ台をひっくり返したり、時には母に手を上げることすらあったようです。ある時、鈴鹿の祖母と衝突して、石岡の表札を削って若山に書き換えようとしたことがあると言います。若山に書き換えたところで、離縁でもしなければ石岡からは抜けられないし、縁を切る気もないのに、怒りに任せてこのような子供じみたことをする人だったのです。その反面、優しい性格で情にもろく、お人好しで人を疑うことを知らない人でもありました。手先が器用で創ることが好きで、母を溺愛し、二人の娘も可愛がりましたが、母と姉には甘えていました。私はペット的存在で、小さい頃は父が家にいる日は必ず一緒にお風呂に入れてもらいました。まだ物心つくかつかぬ頃の最初の思い出は、父の大きなアグラの膝の中にすっぽりと包まれて、髪を洗ってもらう時の安らかな暖かさなのです。
 自分がこうと思ったら、テコでも動かぬ頑固さと、諦めぬ性格は生涯変わることはありませんでした。自己顕示欲が強く、人に認められるために最大限のがむしゃらな努力をして、人にもそれを強要するところがありました。ちょっと鼻持ちならない、田舎の土の匂いが強い…
 そんな父が、ナイロンザイル事件で不条理な仕打ちを受けることによって、苦悩の内に成長し、温和な人格へと変貌していきます。
 では、「暗黒の章」慟哭の昭和30年、宿命の年へとご案内いたします。



第十三話 暗黒の章















 

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2015年4月14日記