第十三話 暗黒の章
                                           2015年4月20日起
 
<その1:遭難>

昭和29年12月22日~昭和30年1月16日まで

昭和30年1月1日

前穂高岳東壁Aフェ-ス下の斜面にて
五朗叔父最後の写真


<大阪市立大学山岳部大島健司氏写す>

この写真は昭和33年11月に大町山岳博物館に寄贈された物です
右上の五朗叔父の写真は、昭和29年に写された物を切り取って張り付けられています


 激動の昭和30年。
 この年から昭和33年にかけてのことは、父が晩年、相田武男氏と共に著作した『石岡繁雄が語る 氷壁・ナイロンザイル事件の真実』(以後『真実本』と記す)や、昭和31年7月に出した冊子『ナイロン・ザイル事件』に、重要な事柄は全て網羅されています。
 このホ-ムペ-ジでは、公表されている文献などは、これまでと同様に表紙などを利用して、別枠で詳しくお読みいただけるようにして、出来る限り公表されていない伝え聞いた話や、手紙、未発表の原本などを中心に時系列に沿ってお話を進めて参ります。また、手紙や草稿などで読みにくい物は、解読清書して参ります。
 この章の資料は、重要な物が多いため長くなりますので、随時頁を変えて掲載いたします。
 まずは<その1:遭難>です。その後の進展をご覧いただくには、以下のアイコンをクリックしてください。


その2:
若山家の怒りと
ナイロンザイル切断の波紋

昭和30(1955)年1月17日~31日

その3:
ナイロンザイル切断原因の究明
昭和30年2月1日~4月21日

その4:
ナイロンザイル事件の勃発
昭和30年4月23日~6月30日
 
その5:
若山五朗の遺体発見
昭和30年7月1日~8月4日

その6:
遭難現場の検証、松の木の実験
昭和30年8月6日~9月上旬

その7:
登山者の命を守るための
闘いへの道

昭和30年9月20日~12月末

その8:
告訴へ
昭和31(1956)年1月1日~6月25日

その9:
冊子『ナイロン・ザイル事件』と
文豪井上靖先生

昭和31年7月1日~9月末

その10:
告訴の波紋と二人の祖父の死
昭和31年10月1日~
12月31日

その11:
『氷壁』の進展と父の苦悩
昭和32(1957)年2月8日~4月25日

その12:
『週間朝日』と『インダストリー』
昭和32年5月1日~7月2日

その13:
告訴の結末とヒマラヤへの道
昭和32年6月6日~8月末

その14:
ジャヌ-遠征計画
昭和32年9月1日~12月末

その15:
第一回公開質問状と映画「氷壁」
昭和33(1958)年1月2日~3月末

その16:
ナイロンザイルの欠陥広まる
昭和33年4月1日~9月18日

その17:
篠田教授の回答やいかに!?
昭和33年10月1日~12月末

その18:
ナイロンザイル事件終止符宣言
昭和34(1959)年
最終頁



<暗黒の章>
2018年5月17日完結

穂高奥又白冬山合宿 昭和29年12月22日~昭和30年1月9日
 参加者:石原一郎・上岡・松田・高井兄・森・北川・石原國利・中道・高井弟・若山・澤田・長谷川・太田、各氏。
 特別参加:南川氏・戸田氏

「岩稜会冬山合宿前穂東壁遭難記録原本」より解読清書(澤田榮介氏記録)

 12月22日
  先発隊として、澤田・南川・若山の3名は名古屋より、石原國は新宿よりと、東西呼応して夜行に乗り込む。

 12月23日 雪
  松本にて4名合流。島々に着く頃より、激しい雪となる。バスにて沢渡に至る。吹雪の中、膝まで潜るラッセルと背中の重荷にあえぎ、今日は坂巻泊と定める。

 12月24日 曇時々雪
  昨日、我々の後を追ってラッセル車が入ったのであろう。中の湯まで快適にラッセルされた道にピッチがはずむ。ガマトン
(釜トンネル)にてスキ-を着ける。大正池に達すれば、残念にも穂高の稜線はガスに覆われているが、矢張り、なつかしいかぎりだ。冬山への気分が急に湧き溢れる。
 ホテルにて昼食後、私の荷揚げ品を整理し、明神養魚場へと向かう。小梨平はすっかり雪に埋もれ、あの繁雑な夏の片鱗すらも思い浮かばない。
 明神の吊橋が強風のため橋板がはずれてしまっており、途中より河原に飛び降りる。
 夜、パタパタして舌打ち。豪勢なクリスマスキャロルに聖なる夜をたたえる。

 12月25日 雪
  今日は松高ルンゼ下迄荷揚げの予定だ。小屋の裏より夏道帰り森林帯をしばらく行き、河原に出る。これを奥又白出合いまでつめる。全員快適だ。河原伝いに、スキ-を並ばせ、左岸ガレ-の手前で、左側灌木帯の小道に入る。急な登りとブッシュに悩まされ、各人の足取りもようやくばらばらになり勝ちである。灌木帯を抜け、右側、丘の大岩の所をデポ地と定め、長居は無用、一気に降る。出合いに達する頃より、吹雪が物凄くなり雪だるまとなって小屋に転がり込む。

 12月26日 雪
  快適な養魚場を後に、いよいよ奥又白へと向かう。馬力をかけて荷物をかついだ為、昨日とは打って変わったピッチで進む。昨日のシュプ-ルは消されている。出合いを過ぎた頃より、輪カンの跡が延々と続いている。先を越されたかと気にしながら登って行くと、ラッセルは途中で分かれ、八峰側稜へと続いている。多分、大阪市大のパ-ティだ。昨日のデポ地に天幕を張り、のんびりと栄養の補給に努める。 

 12月27日 曇のち雪
  澤田、石原國、若山、宝の木までの荷揚げ。南川風邪のため天幕にて休養。松高ルンゼ下のデプリは少ないが、幾度かの行き来のため、安全第一と
中畠新道にラッセルをつけることに定める。さすがにこのラッセルは厳しい。ガスに閉ざされた中を、ただ身体を1cmでも前へと努力が続く、ようやく灌木帯を抜け、宝の木を左横に見て、トラバ-スに移るラッセル、若山が驚異的な馬力を出す。左手に持ったストックを水車のごとく振り廻し、胸のあたりの雪を、かき分け、かき分け宝の木へと進む。全く閉口だ。くたくたに疲れ感激もあったものではない。
 荷物を放り出し、天幕へ降りる。夕刻、下又、あるいは明神か、しきりに遠雷の如き雪崩の響きが身に沁み入る。
 
付記:文中緑字の中畠新道は、このHPの各所で中畑新道となっていますが、正しくは中畠新道です。2020年3月にご指摘を受けましたので、お詫びして訂正させていただきます。

 12月28日 曇
  今日も荷揚げだ。若山は今日は休養の筈が、出発の準備も終え、天幕の外に飛び出した途端、アラヨ!の声が入る。部隊長だ。こんな朝方に来るとは珍しいことだ。部隊長も、休養することにして、3人で出かける。昨日のラッセルのお蔭で、ピッチは弾む。2時間に少しで、宝の木に到着する。前穂側は、全然見えぬが、四峰は下半分をのぞかせて、挑戦しているかのごとく、我々のファイトをかきたてる。今年はまだ雪が少ないのであろうか。蝶、大滝の山々も、すっかり冬装束では覆われていない。のんびりと楽しみながら下りに移る。
 いよいよ待望の又白池での天幕生活に入れるぞ。この半年、夢にまで描いた冬の奥又白、しかもなお黒々と雪をも許さぬ、岩壁に囲まれながら。夜、久しぶりに部隊長を迎え、明日よりの期待に満ちながら、大いに話しがはずむ。

12月29日朝

中畠新道を登る(石原國利氏写す)


松高ルンゼ下のテントより松高ルンゼを見る
<五朗叔父写す>


松高ルンゼ下のテント地
<五朗叔父写す>



昭和30年1月1日

アタックの朝
前穂東壁に取り付くためにB沢を登る
<石原氏写す>



 12月29日 曇
  天幕を撤収、スキ-その他をデポし、池へと向かう。中畠新道も、三度目ともなれば、国道級だ。写真を録り、録りゆっくりと進む。池へ着けば設営作業だ。10日間の生活だ。快適に張ろう。ブッシュも沢山敷いて。瞬く間に、6人用ウィンパ-が2張見事に張られた。夜中よりぐんと冷え、冬の星が輝き始める。一応明日の準備にかかる。

 12月30日 曇
  余り感心しない天気だ。しかし、B沢及び平谷のラッセルと偵察を兼ねて、7時半、石原兄、石原國、澤田は出掛ける。思ったより雪がしまっていて、ラッセルの苦労も少なく、B沢に入る。狭いB沢を恐る恐る登って行く。右岩稜、北壁の積雪状態は非常に少ない。北壁直下までつめて、しばし北壁を凝視している途端、頭上Dフェ-スの上から雪のブロックが落ちて来てあわやと思われたので、ほうほうの体で天幕に戻る。午後休養。お好み焼きを始める。豊富に持ったレバ-も心強いかぎりだ。

 12月31日 雪
  終日リビ。朝方、高井兄弟が天幕に到着す。昨日、中畠新道下部でビヴァ-クを余儀なくされたそうだ。しかも、明神の最南峰で東雲の方が遭難されたという、噂話をもって。
 雪はしんしんと降り続けている。一体いつになったら青空が見えることだろう。12月晦日、29年度もこれで終わりだ。
 2日には若山は帰宅せねばならない。

余白部分に記載…◎高井君の天幕着の日、これで良いですか?30日、天幕着ではなかったですか?

 1月1日 晴
  詳しくは岳連会報。
  3時半起床、6時天幕発。石原國、若山、澤田のorder。
 7時30分 B沢上部でアンザイレン。
 8時 北壁取付。
 11時 スノ-リッヂ。
 15時10分 第二テラス、Aフェ-ス直下。
 17時半 B.P地点。
 19時 ビヴァ-ク。

 テント人員 石原兄、高井兄弟、南川、上岡さん13時テントに到着。
 高井兄、アタック隊の帰りがないので、夕刻、A沢下迄行くも連絡取れず?
 松田、北川、室、森、太田、名古屋発

 1月2日 雪
  8時行動開始。
 石原トップを若山に交代(9時)。
 
9時20分、スリップ、墜落。
天幕に向って救援依頼、「了解」の返事。
 14時半、高井兄と若山の墜落と現在位置の連絡がつく。テントでは、石原兄、上岡、高井兄、A沢より東壁隊のサポ-トに出発。途中救援依頼の報せを受け、高井兄、上岡は更に登り第二尾根で石原國、澤田と連絡がつく。
 石原兄は直ちに天幕に降り、高井弟を連れ、救援隊の依頼にホテルに下る。途中中畠新道にて関西登高会の方に、更に徳沢にて早大OB三名の方に救助を依頼。上高地より神戸に電話及び電報にて連絡。坂巻にいる後発隊に連絡。
 高井兄、上岡はラッセルの重荷と、時刻が遅いので、天幕に引き返す。
 南川テントキ-パ-。 
 坂巻にて松田、室、森、北川、太田、遭難の報せを受け、直ちに腹痛の松田、太田、森を残して室、北川はホテルに上がる。
 関西登高会、又白池にB.C設置。西糸屋2名(上高地で救援の依頼を受け)徳沢へ。

 1月3日 雪
 ・10時20分 ガスの切れ間より、天幕よりラッセルの跡がくっきり見え、これをたどって行けば、4つの黒点がA沢に向っている。14時、高井兄が頂上よりアップザイレンで降って下る。石原國救助の後、澤田もB.Cをあとにする。(14:40分)
 17時前後、相次いで天幕に迎え入れられる。
(詳細下記)
 ・上岡、高井兄、5時天幕発。猛烈なラッセルに苦しみ、登高会3名及び徳沢よりの西糸屋2名、早大O.B3名に追いつかれる。頂上より2名を引き揚げ、天幕に降ろす。高井兄は後始末の為、少し遅れる。
 ・森、室、池のB.Cに向うも、途中道を誤り思わぬ時間を喰い16時頃着く。
 ・松田、太田、石原兄、高井弟、徳沢へ。北川は養魚場のキ-パ-に。
 ・石岡、赤嶺、三林、新井、早朝名古屋発。稲核で銀ちゃんを依頼し、ホテルに向かう。24時着。
 ・清水、夜行にて新宿発。
 ・西糸屋、早大の方は徳沢に降りられた。

 1月4日 晴のち曇
  石原國、澤田は登高会梶本氏に凍傷の治療を受く。
 石原兄、松田、太田、三林、小林(銀ちゃん)、高井弟、天幕着。10時頃。
 室、早朝連絡の為下山。ホテルより再び徳沢まで上がり、救助隊と連絡後ホテルへ下る。
 11時、高井兄、上岡、森、小林、高井弟は、澤田、石原國を降ろす。松高ルンゼは尻セ-ドで降りるが、それより澤田は、ルンゼ下で一緒になった新井を加えて、代わる代わる皆の背におぶさり、夕刻養魚場に到着。
 石原兄、松田、太田、南川、三林は若山の捜索の為、天幕に残留。
 石原兄、松田、午後B沢に捜索に行くが、むなしく引き返す。
 赤嶺、飯田氏、小山氏、それに夜遅く着いた清水は、養魚場に上がり、澤田、石原國の凍傷の治療を施す。24時過ぎ。
 石岡はホテルにて神戸とたえず連絡をとる。
 中道、佐野、西川、黒田、浅井、毛利、大北氏、岩瀬氏、三宅氏、若山氏
(朝発英太・夜発富夫)名古屋発夜行。

 1月5日 曇のち吹雪
  又白池の天幕、捜索隊は猛烈な雪に1日休養。
 小山氏、山本氏、森、捜索隊に合流する為、天幕に上がろうとするも、中畠新道の猛ラッセルに引き返す。
 上岡、赤嶺、清水、高井兄、小林氏、飯田氏、新井は石原國と、そりに乗せた澤田をホテルに降ろす。11時、ホテル着。北川ホテルへ。
 ホテルにて神戸との連絡を取り、凍傷治療の急を要する澤田を取り敢えず降ろし、石原國はしばらくホテルで静養することにする。
 赤嶺、上岡、清水、高井兄、飯田氏に新たに応援の太田、小松両氏に引かれて澤田が1時出発す。ホテル前広場にて、毛利、浅井、西川、佐藤、三宅氏、若山氏と出会い、毛利、浅井、西川、佐藤は直ちにそり隊に合流、下る。更に、大正池附近で、中道、黒田、大北氏、岩瀬氏と出会い、大北、岩瀬氏は共に降る。猛吹雪の中、連日のアルバイトに疲労甚だしく、全員くたくたになって沢渡西村屋に着く。17時。
 19時、松本より迎えのハイヤ-に、上岡、赤嶺、高井兄弟、澤田、飯田氏、岩瀬氏、大北氏の8名乗り込む。他は西村屋泊。
 ・室早朝下山、中道さん一行と雲間の滝で会う。
 ・中道、黒田、三宅氏、若山兄弟、ホテルへ。中道さん石原國の凍傷治療を施す。
 澤田は、松本信大病院で治療の後、一同と共に0時40分、名古屋行に乗り込む。

 1月6日 雪
  又白天幕 停滞
 三宅氏、若山兄弟下山。佐藤、西川、汽車にて帰神。上田、伊藤、林、夜行にて名古屋発。小松氏、太田氏、清水、新井、毛利、浅井、沢渡よりホテルへ。石岡、黒田、北川、中道、石原國ホテル。
 澤田、名大病院入院。


 上記に補足説明を入れておく。
 この冬山合宿での目標は、厳冬期の、前穂高北尾根四峰正面(北条新村ル-ト・松高ル-ト・四峰 明大ル-ト)・前穂高東壁・前穂高北尾根の初登攀であった。
 当時の岩稜会では、登攀の隊員は、出発する前の晩に、気象状況・健康状態・登攀の技量や体力などを考慮に入れて、登攀リ-ダ-が決定することになっていた。この時の登攀リ-ダ-は石原一郎氏(通称、部隊長。以下、石原一郎氏を部隊長。石原國利氏を國利氏と記す)であった。この合宿の最大目的は四峰正面であり、その登攀には実力が一段上のメンバ-の到着を待たねばならなかった。その時点で、ベ-スキャンプ(標高2500mの奥又白池のわき)に居たのは石原兄弟・高井兄弟・澤田氏・南川氏と五朗叔父であった。部隊長が当日の登攀隊員として、新鋭の國利氏と澤田氏、そして、この頃正式な岩稜会員ではなかった五朗叔父を選んだのは、もちろん登攀力が優れていたためでもあったが、辛いボッカの仕事を引き受けて、早くから入山して準備に努めた3人へのご褒美と言うことでもあったようだ。またこの年の穂高合宿(1954年4月24日~5月7日)で五朗叔父は、部隊長と共に積雪期の前穂北尾根四・五のコル→前穂高頂上→吊尾根を登り、三重大山岳部の北岳合宿(7月19日~28日)では、バットレス、第一尾根・第二尾根・第三尾根・第四尾根を國氏利、澤田氏とパ-ティを組んで攀じた経験があった。積雪期の初登攀のような大きな登攀の場合のパ-ティは二人と言うのがセオリ-であったが、五朗叔父は、登攀能力がメキメキと上達してきていたので、2日には帰らなければならないところを、押して登攀隊員に加えた。初めての大きなアタックに、五朗叔父の震えたつような闘志が手に取るようだ。しかし、この人選が、後に岩稜会員の間で物議を呼ぶことになる。
 時に、石原國利氏、中央大学4年24歳。澤田榮介氏、三重大学3年21歳。若山五朗、三重大学1年19歳であった。
 1月1日、闘いの朝、三人は最新鋭の強力ナイロンザイル40mを持って颯爽と前穂東壁を目指したのだ。

 岩稜会のアタックリ-ダ-から離れた父は、岩稜会の合宿のたびになんとなく心配していたが、この年も12月22日に冬山合宿に出発した岩稜会員のことを気にかけつつ、ここ数年の暮れから正月にかけては、鈴鹿の家で家族と共に過ごしていた。
 元旦の朝は、曽祖父母、祖父母と家族4人が揃って家の仏壇に参り、神棚に柏手を打って今年の無事を祈った。そして、お屠蘇とお節料理に舌鼓を打った。お屠蘇の酔いも回った頃、父がテ-プレコ-ダ-を持ち出して、家族全員の声を録音することになった。
 アイコンをクリックしてください。その録音がお聞きいただけます。
    これは、最初に昭和51年1月に父が説明を入れ、録音したものが入っています。

 
 家族が、和気あいあいと穏やかな正月を楽しんでいる頃、五朗叔父は前穂高東壁の初登攀に、死闘を繰り広げていた訳である。
 1月2日、のんびりと正月を過ごした父は、夕方から10歳の姉を連れて神戸劇場へ映画を観に行った。この神戸劇場は、つぶれてしまい今はないが、現在の近鉄鈴鹿市駅のすぐ近くにあり、曽祖父が大株主であったため、株主優待で入れたので、よく映画を観に行っていた。この時の映画は中村(後に萬屋)錦之助の時代劇だったそうだ。
 映画を観ていたら、突然「石岡さ~ん、弟さんが遭難しました。すぐ家にお帰り下さい」と、映画館の方の大声が響いた。父は姉の手を引きずるように家へ飛んで帰り、まだつないだままになっていた電話に飛び付いた。部隊長の差し迫った声がとぎれとぎれに受話器を伝った。上高地の木村小屋(上高地帝国ホテルの冬期番小屋)からかけて来たのであった。
 遭難の報せを受けた父は、焦燥感の中、慌ただしく神戸在住の岩稜会員を呼び集め対策をたて、翌日早朝には、名古屋駅から朝一番(8時発)の中央線に飛び乗った。
 ここからの出来事は、母屋2階にあった膨大なナイロンザイル事件関係の資料と同様に、大事に保存されていた「1955年1月 奥又合宿忘備録 岩稜会」というノ-トに記されていた。筆者は岩稜会の上田定夫氏(亀山高校教諭)と思われる。
 このことは『真実本』に相田氏の解説入りで詳しく掲載されているので、右に表紙を載せ、それをクリックしていただければ、遭難当時の人々の記憶違いや憶測で迷走する遭難現場の生々しい記録と、遭難救援に携わった人々の名簿が原文でお読みいただける。特に、親元に宛てた電文の数々には涙を誘われる。若山父母宛「チチウエ ハハウエ サイダイノフコウヲオワビシマス シカシ タノ2メイガ ブジダッタコトヲ カンシャシマス シゲオ」
 尚、遭難に関する会計簿と、遭難に無関係なことを記した下書きと思われる頁は削除した。

 ここで、この日に起きた遭難の全貌を、8月に発行された『三重県山岳連盟報告 第6号』(上記、原本の1月1日に書かれている『岳連会報』)に澤田氏が執筆した報告書の中から該当部分を掲載する。これは、『真実本』と『ナイロン・ザイル事件』にも掲載されているが、第一級の資料なので、敢えて転記する。

 「前穂高岳東壁遭難報告」 岩稜会 澤田榮介
 -前略-
 明けて元旦、午前3時 、満天の星にとび起き、急いで準備にかかる。携行品として、8mmナイロンザイル40m1本。ハンマ-2個、カラビナ10個、アブミ2個、捨て縄、ツェルトサブリュック2個、ヘッドライト2個、マッチ、固形メタ、ロ-ソク、それに個人装備として、各自毛糸セ-タ-1着、靴下2、手袋、食料としてド-ナツ15個、チョコレ-ト3枚、干しぶどう、甘納豆、ピ-ナッツ、餅菓子、それに大型テルモスに詰めたミルクであった。
 パーティは3名とし、石原國利、澤田、若山の新人で編成した。6時になってようやく明るくなったので、見送りの友人と握手し、石原一郎リーダーの激励の言葉を後に天幕を出発した。天候は全くの快晴だが、非常に寒い。零下25度だった。全員非常に快調で、腰までもぐるラッセルもなんのその、アタックの喜びに燃えた我々はぐんぐんピッチをあげていく。7時10分、インゼル
(島のように出た岩や地面の部分)の中ほどで、折からの御来光を仰ぎ、その神々しさに全く魂を打たれた。
 7時30分 、B沢上部でアンザイレン(ザイルを結び合うこと)をする。オーダーは石原國利、若山、澤田の順である。テルモスのミルクをあけて、チョコレートを齧り、いよいよ高距150m、傾斜60度の北壁に取りつく。8時、ルートは昨年夏のルート、即ち、一番左側、右岩稜寄りが容易とみられるので、これを採る。先ず、Dフェ-ス基部に沿って1ピッチ、それから左上方に1ピッチと雪の斜面を登り、次に4mのクラック(岩壁の割れ目)にハ-ケンを1本きかし、先人のハ-ケンを利用して乗り越え、チムニ-(岩壁に縦に走る割れ目)の基部に入る。雪の状態はまったく悪い。岩の上に乗っている雪は固まることがなく、さらさらと落ちてくるので、アイゼンのツアッケ(爪)が全然きかない。トップは全く大変で、雪をかき落として登らなければならず、思わぬ時間の消耗をきたした。約6mのチムニ-に3本のハーケンを打ち、やっとのことで、ここを切り抜けて上部の雪のリッジ(山稜)に出る。時間は11時、休む間もなく、急傾斜のスノ-リッジを1ピッチ半を登り、いよいよ難関の第二テラスへ抜ける約40mの岩壁に向かう。傾斜もぐんぐんと増し、非常に困難に見える。しかしながら、我々の闘志は全然衰えずかえって奮い立つだけであった。トップは左側のチムニーを避け、右側のフェースを微妙なバランスで登り、次に、チムニ-に沿って5m登ると、行先ははたと止まった。オーバーハング(岩壁の傾斜が垂直以上の部分)である。ハーケンをきかして、ものすごいファイトでこれを越える。非常な悪場である。チムニ-の左側へトラバ-ス(傾斜の水平移動)する石原の姿が現れ、大きく左に回り込んで第二テラスの末端の雪の傾斜に再び姿を消した。ここまででザイルの間隔を変え、石原と若山の間を30mにし、若山をハング下まで登らせる。やがて、ザイルがピンと張り、アラヨ-の声が聞こえる。1時50分、丁度この時第四峰頂上から、大阪市大のパーティーの激励の言葉を受ける。セカンドの若山はどうしてもこのハングが越せないのか、上からの懸命の確保があるにもかかわらず、非常に苦しんでいる。突然、全く突然ザザーッと、左側のチムニーを滑り落ちる雪と共に、上のザイルが物凄く緊張した。どうしたと声をかけたが返事がない。上から驚きの声が聞えて来た。オーバーハングの乗り越しに力つき、そのままズルズルとチムニ-に滑り落ちたらしい。そのままの姿勢でいるように声をかけ、澤田はハング下まで登り、元気づいた若山を元の地点にあげ、肩車でハングを越し、左へ回り込んで第二テラスへ出たのは14時50分であった。直ちに、ベースキャンプへ向って、ヤッホ-をかけた。第二テラスの急な斜面を2ピッチ登り、Aフェ-ス下にやっと15時10分に着いた。
 遅い昼食をとり、甘納豆をほおばりつつ、Aフェースを懸命に注視する。Aフェ-スは高距80mで、傾斜65度あり、北壁に比して、積雪が少ない。
 この頃から、さしもの快晴もようやく薄もやが立ち込めてきた。天幕に向かってヤッホ-と呼びかけた後、直ちに取りつく。時まさに3時半である。右側ルートを忠実に登る。1ピッチ後、夏には問題でない細いクラックが非常に悪い。ハ-ケンを2本打ち、アブミ
(短めの縄梯子)を使用する。次は傾斜は緩くなるが、スラブ状の岩(凸凹の少ない一枚岩)に不安定な雪がべっとりとついていて、全く感じの悪い所である。足元が今にも崩れ落ちそうな所を慎重に登る。
 もう日がとっぷり暮れる。時計を見ると5時半である。頭上30mほどに見える頂上のスカイラインがおいでおいでをして差し招いているようだ。ザックからライトを取り出して、頭上に付けたけれども、やはり視界はきかず全く致命的であった。仕方なくビバークと決心する。しかし、この地点では、体一つ隠すところもないし、それどころか安全な足場一つ探すこともできない。一寸暗澹たる気持ちになる。すると、突然石原が喜びの声をあげた。ピッケルで雪をかきおとしていた時、偶然にも岩のくぼみを発見した。暫く安堵の胸をなでおろし、そこへ集結して、雪を掘りだし、幅1m20cm、高さ30cm奥行1mの穴を作る。そこへ3人が並んで腰を下ろし、足を投出して穴の中へ入れる。しかし上半身は全然外へ出ており、特に尻が半分しか乗っていないのである。気をゆるめると、今にも真っ逆さまに第二テラスへ落ちて行くような気がする。各自ピッケルで安全なるセルフビレ-(自己確保)を行う。18時になって、真黒な空からは粉雪が舞い始め、前途多難を思わしめるが、明日へ希望をつなぎ、ツェルトを冠り、昼食の残りを噛みしめる。身動き一つできない姿勢のためにセーターも着ることができない。アイゼンの紐はこちこちに凍結してしまった。凍傷を心配して、ともすると、緩む心を励まして、懸命に靴の中の指を動かす。寒さは全く厳しい。それでも疲れているためかうとうととしかけるが、やはり眠れない。足はジーンとして感覚が失われてゆく。
 今頃、下の天幕ではどうしているだろう。我々の帰りのないのを何と想像しているだろう。ラジュースのうなっている天幕の中で暖かい雑煮で満腹している仲間の顔が目に浮かぶ。今日は元旦なはずだ。
 何故、我々はかくもして山へ登らなければならないのだろうか。ただ山の呼ぶ声に夢中になっていて、いいのだろうか。
 何時の間にか、左側の若山が安らかな鼾を立て始めた。漸く、落ち着きを覚え再びうとうとする。3時頃であろうか、3人共ぱっちり眼を覚ます。体中一面雪で埋まっている。非常な寒さで、互いに体と体とをぶっつけて暖をとる。固形メタに点火しようとするも、吹き込む風と雪とで、たちまち消えてしまう。火の消えたあとが全くやりきれない。5時、6時と時計の進むのが、アリの歩みよりのろくさい。
 漸く明るくなり始めたが、依然雪が止まない。ツェルトから体を乗り出せば、みるみるうちに、ヤッケ共に体がこわばってしまう。暫く暖かくなるのを待って行動を開始することにした。
 8時になって、石原が先ずビバ-ク地点の右側を調べる。そこにはスラブ状の所へ新雪がついて、不安定に見える。それでも、4mほど登ったが、今にも雪が落ちそうで、引き返した。今度は右側のチムニ-へ取り付く。約2m上に岩の突起があり、更にその上3mの所に顕著なオーバーハングをなす突起がある。このところを越すのがヤマ場と見られた。ハング下までは難なく登り、
突起にザイルをかけ、これを手掛かりにして真正面から乗り切ろうとしたが、昨日の疲れのため、どうしても乗り込せない。しばらく休息の後、2度、3度と試みたがやはり駄目だった。そこで、オーダーを変更して、ミッテルの若山が先頭となり石原と交代する。
 若山も石原と同様になんなくハング下に至り、突起にザイルをかける。しばらく真正面からのり越そうと試みていたが、だめなのか、今度はザイルを突起にかけたまま、右側岩壁に沿って逃げきろうとして、一歩トラバースを開始して、直登にかかろうとした瞬間「アッ」と一声叫ぶとともに、右足をスリップした。下で懸命に確保していた石原の足に触れて、姿は消えてしまった。不思議にも墜落によるザイルのショックが全然ない。おそるおそるザイルをたぐってみる。これはなんとしたことか、
8mm強力ナイロンザイルがぷっつり切れている。いかにも鋭い刃物で断ち切ったように。「五朗ちゃん、五朗ち-ゃん」と、第二テラスへ向かって必死になって叫ぶ。9時20分 、更に声を張りあげてどなっても応答がない。しばらくは唖然として言葉が出ない。ようやく気を取り直して、天幕へ向って「ヤッホ-」を連呼し、救援を依頼する。天幕からは直ちに「了解」という力強い石原リーダーからの応答があり、ついで南川の返事がある。
 再びビバ-クの地点へ腰を下ろす。このまま救援を待つか、来るとすれば早くとも14時半になる。あるいは第二テラスまでアップザイレンで降り、若山君を捜し、左側V字状雪渓へ向かってトラバ-スして逃げるか、あるいは自力でAフェ-ス最後の20mを登り切るか、方法は3通りしかない。しかしながら、疲れ切った身体には、このショックは余りにも痛手だった。登攀の自信を失った我々は救援に来る友を信じ一日でも二日でも待つことに決心した。
 雪は休みなく降っている。昨日、声をかけてくれた大阪市大のバ-ティも、この雪では前穂高岳の頂上へは登れないだろう。
 しばらくツェルトを被っているうちに、漸く身体も休まった。すると第二テラスへどうしても下らなければならないという考えが強力に支配し始める。
 アップザイレンの準備にとりかかる。先ず、石原が下り始めたが、第二尾根近くで、救援隊らしい声がしたので留まった。ヤッホ-をかける。突然、高井兄の声が間近に聞こえた。「元気か」「ザイルが切れて五朗ちゃんが落ちたんだ」「落下地点は」「わからん」「現在の位置は」「頂上直下20m」「解った。動かないでいてくれ」こんな言葉が交わされた後、アップザイレンをやめ、もとの地点へ腰を下ろす。14時半である。
 A沢から地上に至る所用時間を計算し、二人で話し合った。急に空腹を覚え始めた。食物らしいものは昨日の昼食をしたきりだったのでやむを得ない。と言っても何物もなく、ザックをひっくり返して、漸く甘納豆を五つ六つ発見して、二人で分け合って食べる。食欲は益々盛んとなる。恨みのオレンジ着色のナイロンザイルがミカンに見えて、空腹をかりたてる。そんな事を思いながらも時間は刻々と経っていく。16時半になっても、救援隊の来る気配もない。不安な気持ちが湧き始めた。しかし、石原リーダー、高井兄、それに東壁の大先輩上岡さんも天幕に居られるはずだ。絶対来てくれる。こう確信してからも、互いに見合わす眼と眼、顔には力がない。17時半、日も暮れはてて、再び飢えと寒気にさいなまれる長い夜を迎えなければならなかった。
 三人から二人に減ったので、いくぶん楽に座れるようになったものの、体の疲れは覆い隠すことは出来ない。天幕に向かって叫ぶ声も枯れて声とならない。これぐらいで参ってたまるものか。ナンガパルバットで逝ったメルクルを見よ。明日こそは頑張ると、互いに励まし合う。コブ尾根、北尾根、滝谷と合宿の思い出はつきない。楽しかったその時々の思い出が、走馬燈の如く次から次へと出てくる。こんなことを覚めるともなく、眠るともなく想い続ける。はっとして目が覚めて眺めると、第4峰は正面ル-トをスカイラインに黒々と厳然と聳えている。いつまでも山々は我々を守っていてくれるだろう。段々と睡魔が襲ってくる。このまま眠ってしまおう。彼らの懐に抱かれつつ何時の間にか眠ってしまった。
 午前4時頃か、厳しい寒さに夢が破れた。とても耐えられない寒気だ。蝋燭を点けようとしても風に吹き消されてダメである。この時の衣類は、澤田は、目出帽・毛莫大小肌着2枚・毛カッタ-1枚・毛ズボン下1枚・毛ニッカ-1枚・ストッキング1枚・靴下太毛糸2枚・毛糸手袋1枚・毛皮手袋1枚・ウインドヤッケ上下で、石原は毛莫大小肌着・毛カッタ-・セ-タ-・毛ズボン下・ニッカ-・ストッキング・太毛糸靴下2枚・毛糸手袋2枚・ウインドヤッケ上下、そして帽子を失った代わりとして、襟巻を冠っている。 
 雪は依然として、しんしんと降っているが、風が比較的少ないのが何よりありがたい。
 足の感覚が全然失っている。そう言えば、昨夜は全然足のことを考えもしなかった。やはり、アイゼンの紐の固さが原因となったのであろうか。書物で見たアンナプルナのエルゾ-グ隊長の足が眼前にちらつく。
 やっと長い長い夜が明けた。陽があたり始める。 ツェルトを脱いで天幕へ向かって叫ぶ。声が枯れると口笛を吹く。天候は回復しつつある。1時間置きにヤッホ-をかける事にする。9時、今一度昨日のチムニ-に取りつく。やはり駄目だ。これしきのハングぐらいなんだと、負け惜しみを言いながらツェルトを被る。
 10時20分、ヤッホ-をかけようと上部の丘の地点を見るとラッセルの跡がくっきりと見える。更にその跡をたどると、黒点が四つ上に向かって動いて来るのが見える。嬉しさの余り、ヤッホ-を連発する。さあ引き揚げの準備だ。もうじっとしてはいられない。リュックを背負っていようとしても、どうする事も出来ない。互いに苦笑しながら再びツェルトを取り出す。今度こそ15時までには、来るだろう。突然頭上からヤッホ-がかかる。「ここだ。ここだ。」と合図する。
 しばらく待つ。するすると高井兄の見事なアップザイレンが現れる。「よう頑張った…」感激に何も言葉が出ない。持って来てくれた暖かいミルクを飲んで少し元気が出てきた。引き揚げの準備にかかる。二日間のオカン場となったこのテラスに感謝を捧げ、はるか下の第二テラスへ向って合掌する。「友よ、安らかに眠れ」と別れを告げる。
 まず石原が頂上からのザイルに身体を結び、登り始める。ルートは左側スラブ状の方だ。14時40分、続いて澤田が登る。腕の力が全然ないので、上からの力強い引き揚げに頼るより仕方がない。頂上には上岡さん始め、早大OB 、関西登高会、西糸屋の方々の暖かい手に迎えられた。やがてA沢を経て、17時10分、無事ベースキャンプへ達した。
 もう空は暗くなりかけて、星がちかちか光を増していた。


 これが五郎叔父遭難の顛末である。重要部分は赤字にした。
 以下に、遭難から下山までの間に写された写真を掲載する。
 1月2日 前穂高東壁隊帰らず
ベ-スキャンプにて帰りを待つ
 
1月3日 救出されて背負われて下る澤田氏 
 
國利氏の凍傷の耳
 澤田氏の凍傷の足
1月6日 ベ-スキャンプのテントを撤収する 
荷物の片付けをする部隊長
 
 
テント撤収後に

前列 左 部隊長・右 松田氏 
 撤収後、帰り道を急ぐ
鈴鹿市の中勢病院にて

左 澤田氏・右 國利氏 
 中勢病院にて 澤田氏の凍傷の足

 強力8mmナイロンザイルが切れて墜落死した訳だが、このナイロンザイルについては、ご存じの通り、今後大きな問題となっていくのであるが、父があまり問題としなかった、岩稜会としての反省事項を少し書いておこう。
①パ-ティの人選について、経験の浅い五朗叔父を起用したことは正しかったか。
②ビバ-クは予定に入っていなかったので、もっと早く引き返すべきではなかったか。
③國利氏は五朗叔父とトップを交代したが、交代するならば登攀経験の深い澤田氏にすべきではなかったか。
 これらのことを父があまり問題にしなかったのは、個人攻撃になるのを恐れたことと、もしナイロンザイルが切れなかったら、五朗叔父は確実に助かっていたからである。しかしこれが、この1本だけ切れたのなら「仕方がない」で終わったかもしれないが、なんと!この遭難を挟んで、たった1週間の間に3本のナイロンザイルが切れて遭難が起こっていたのである。
 12月28日、東雲山渓会大高俊直氏、穂高明神岳五峰で8mmナイロンザイル切断、墜落重症。
 1月3日、大阪市立大学山岳部員大島健司氏、前穂高岳で11mmナイロンザイル切断、墜落軽傷。この大島氏は前記のように、五朗叔父の最後の写真を撮った人物であり、岩稜会の三人が前穂東壁を登攀中に激励の言葉を送った人物でもある。
 この大島氏から1月16日付で手紙が送られてきている。中には、五朗叔父最後の写真が同封されており、大島氏が体験した遭難の模様が詳しく記されていた。右の手紙をクリックしていただけば、全文がお読みいただける。
 また、昭和31年5月20日に名古屋の父の許へ来訪された時には、以下のことを語られた。

大島氏:墜落の直前、オ-バ-ハング気味の岩をピッケルのピックを利用して登ろうとして失敗、墜落した。橋本に連れられて四峯のテントに来るまで記憶が無い。後で尻が痛かっただけで、ザイルの張力による痛みも痣も全然なかった。
橋本氏:墜落と同時に一歩下がってショックに備えた。トップの落ちる瞬間は見ていたが、それから先は見なかった。全然ショックがないので、ザイルは力が加わる前に切れたと思うと発表して、笑われてしまった。が当時は本当にそう考えていた。
 同年3月再び二人で現地へ行ったとき、よく調べてみたが、どういう状態で切れたか全く不明である。現地はほとんど垂直で、ザイルが引っかかるような岩もないように思えたが、撮って来た写真を見ると、雪と岩と半々くらいに見えるので、やはりどこかの岩に引っかかったのだろうと考えている。

 さて、3日の深夜に木村小屋(先の遭難記録原本にホテルとあるのは、この小屋のことである)に到着した父は、まだ遭難の全貌がつかめず、連絡係と現地指揮のためここに逗留する。
 4日、國利氏と澤田氏は救助され凍傷はあるが無事、五朗叔父はザイルが切れて墜落し絶望と知る。五朗叔父の捜索は、はかどらず、遭難した3名の家族などに辛い連絡を入れる。
 5日、國利氏と澤田氏が木村小屋に収容されて、重い凍傷の澤田氏はすぐに鈴鹿に送り返して入院させることにした。國利氏は小屋に留まり、はじめてナイロンザイル切断の詳しい報告を聞き、國利氏が持参した切れたナイロンザイルの國利氏の身体に残った側の切れ口を見た。そのショックは言葉では言い表せないほどであった。父は、ナイロンザイル切断がどうして起こったのかを考えて、直ぐに実験を行った。切れた8mmナイロンザイルとマニラ麻12mmのザイルを薪の上に並べて、いつも山に持って行くナタで、同じ高さから力を入れずにナタを自然落下させるように打ち下ろした。ナイロンザイルはいとも簡単に切れてしまったが、麻ザイルは簡単には切れなかった。このことから、ナイロンザイルは鋭い岩角に弱いという欠陥があると確信した。
 五朗叔父の捜索について、父は「他の人なら言えないが、五朗のことだからはっきり言えるが、死体が見つかっても、危険だったら打ち切って、初夏を待ってもらいたいと思っている」と語った。
 6日、富夫叔父から木村小屋に電話が入った。上高地に向う途中の松本からであった。「今日の毎日新聞朝刊に、竹節運動部長の話として、ナイロンザイルは切れるはずがない。何らかのミスがあったのだろうというようなことが出ている」と言ってきた。
 ここで、この毎日新聞の記事を転記する。この新聞は、冊子『ナイロン・ザイル事件』には信濃毎日新聞長野県版としてあるが、正しくは毎日新聞長野県版である。この記事は残されておらず『真実本』を共著された相田武男氏が、執筆のために苦労して探されたものである。

 前穂高遭難の三重大生一行の使ったザイルがナイロン製であったことから、山の専門家たちの間でも「極寒に弱いのではないか」の疑問を抱くものがあるので是について竹節本社運動部長にきいてみた。
 【竹節本社運動部長】 「ナイロン製のザイルは日本で製造され始めてからまだ日は浅いが外国製にも劣らない優秀なものが造られている。昭和27年にマナスルへ踏査に行った時は、スイス、アメリカ、日本などのナイロン製ザイルを持って行った。この時は日本製は何となく頼り切ることができなかったが、28年の登山には非常に役立ち、むしろアメリカ製よりも日本製に頼り切ることができたので、29年の登山にはすべて日本製にしてしまった。私は日本製ナイロンザイルの優秀な点を十分に認める。
 前穂高岳で三重大の若山君が遭難した直接原因を、日本製ナイロンザイルの弱さになすりつけてとやかく言っている者もあるが、これははなはだ早計である。ナイロン製は麻製よりも細く軽く耐久性がある。しかし日光に対してはひどくもろくかつ固くなる欠点がある。ザイルを買うには何百キロのショックに耐えうるかの試験をしなければならないが、一般市販などではあるいは略してしまうこともありがちである。自分たちの命を託するザイルであるから、使用前に慎重過ぎるほどのテストを経るのが当然である。したがって毎朝出発する前には十分テストをしてから出発しなければならない。若山君の場合はどんな具合に切れたのか判らないが、もし岩の角で切れたとしたらザイルさばきが下手であったことになるし、使い古したか、細すぎたザイルを使ったのであったら不注意ということになる」


 この記事は、父がナイロンザイル事件を闘い抜くことになる点火剤、起爆剤であった。
 このままにしておいたら、原因は登山者のミスにあるとされ、ナイロンザイルで次の犠牲者が出てしまう。そこで急いで國利氏が説明してくれた現場の状況やスケッチを含めて、ナイロンザイルの岩角欠陥の仮説を書いて報告書にまとめた。そして、岩稜会員と共に書き写して5部作成した。
 9日、五朗叔父の捜索を打ち切って春を待つことにして、後ろ髪を引かれつつ鈴鹿に帰る途中、松本で報告書を新聞社に手渡し、鈴鹿に帰ってガリ版刷りのコピ-を作って、山関係の出版社にも送った。その報告書を、ここに全文転記する。

 父の親友であった元学習院大学学長の故木下是雄先生の研究室から、父が送ったナイロンザイル事件関係の資料が発見されて、2016年3月25日、木下先生の後任の荒川一郎先生が来訪され、その資料を綴じたファイルをいただいた。下の報告書下書きをクリックしていただくと、下書きに続けて木下先生宛に父が送った、書き込みのあるガリ版刷りの報告書がご覧いただける。

 私は本年1月2日 前穂高岳の東壁に於いて発生した遭難事故の責任者であります。社会の皆様をお騒がせしましたことを喪心からお詫び申し上げると共に、遭難事故は理由はどのようであろうとも、岩登りの健全な発展を著しく阻害するものであると考えられますので、私たちも技術の科学的な究明と、安全ということについては、全く慎重にのぞんでいたつもりであり、かつ私たち岩登り生活20年間を通じ全く無事故を通してきたものでありまして、今回の事故は全く慙愧の念に堪えません。敗れた私が次のようなことを申しあげるのは誠に卑怯であり、かつ愛する肉親を失った衝撃が、私の乏しい理性を一層低下せしめているのではないかと恐れるのでありますが、今や岳人の間に絶対の信頼をもたれつつあるナイロン・ザイルが切断したという事が事件の直接の原因でありますので、ザイル切断に関する資料と、それについての感想を申し述べることは、ザイルの改良、即ち岩登りの発展のための私に課せられた当然の義務ではないかと考え、まずい筆をとった次第であります。
 1.ザイル購入の事情
 名古屋在住の著名登山家であり、今回初めて登山用ナイロン製品の販売を始められたK氏が、昨年11月中ごろ私の所に来られ、ナイロン製ザイルの見本数種、同じく布地10数種及びTレイヨンの布地によるオーバー手袋を持参せられ、それに関する豊富な資料を提示された。それによると
(イ) 製品はTレイヨンの原糸を使用してT製鋼において製綱せるものである。現在の研究段階は従来のナイロン・ザイルより約2割強力なザイルが完成し(強力糸といわれました)これによれば、この8mmザイルは抗張力については従来のマニラ麻11mm(私たちは従来これのスイス製品をよく使いました)に匹敵する。従って岩登りの安全性に対して最も大切な衝撃に対しては、約三倍の強さを有するであろう。(注 もし提示された抗張力を表す数字が正しければ、マニラ麻ザイルの伸びは最大抗張力の場合に10~15%、ナイロン・ザイルは55%であるから、ナイロン・ザイルは理論上、衝撃に対して三倍強いことになる)
(ロ) 寒さに対しては大丈夫である。すでにマナスル登山、南氷洋の捕鯨に使用している。ただナイロンの繊維の間に水が入って凍った状態の場合、即ちガリガリの状態の場合のテストは行われていないから、この状態については何とも言えない。従ってこの場合について名古屋大学でテストしてほしい。(この点、須賀太郎教授と話し合ってテストの方法等について、意見の一致をみたのではあるが、入山の期日が近迫し、テストが出来なかった。もっともザイル切断の場合はこの状態ではなかった)
(ハ) ナイロンは紫外線に弱いと言われているが、これは表面を着色することによって防止できるのではないかと思う。いずれにしても着色すれば判別に容易だから、着色してはどうかという意見に基づき、オレンジ着色した。なお、着色はザイルの表面のみで内部には及んでいない。アンザイレンの時以外は紫外線にふれることを避け、その他の消耗を防ぐため、綿防水布で袋を作り携行した。
(ニ) 一般にナイロン・ザイルが欲しくても買えないのは高価なためであるが、8mmであれば値段もマニラ麻の11mmと大差なく、且つ、マニラ麻11mmより強力なのだから8mmで充分である。おそらくこの軽いザイルはザイルの革命となるであろう。実は私たちのグル-プ(K氏のグル-プ)でも11mmの既購入ザイルを他に転売して8mmのを二本買いたいと思っている。
(ホ) 製品はT製綱の保証済みであるため、価格は保証のないものより2割高である。
 右のおおよそ五つの点に基づき私はザイルの購入について私たちの仲間と協議した。習慣上、8mmと言う事は大きな不安を感じた者が多かったが、私が細かいデータを示して説明し、岩登りの発展のためにもぜひ使ってみたいと主張した。なお、先登者の確保の場合にザイルが細くて滑りやすくはないかということについても、先登者の安全な確保は制動確保の他はないのであるから(この理論的な説明は学問的となるので省略す)滑りやすいということは、かえって有利であることを知っていたので、ついに8mmザイルを80m購入することにした。
 K氏の話しによれば、このザイルを本年冬山で使うのは私たちと関西登高会だけで、他の注文書は本年には間に合わないので来年にしてもらったという。(関西登高会でもこのザイルを携えて入山して居られました)
2. 本件発生当時の状況
 本件発生までの行動の大要は次の様であった。
 前穂高岳東面の削壁(高距約200m、前穂東壁と通称す)の登攀は、今冬合宿の三つの目的の中の一つであったので、元旦の快晴を好機到来として石原、若山、澤田の三名は午前6時又白池畔のテント(標高2500m)を勇躍出発、8時東壁に取り付いた。前記の順にザイルをつなぎ登攀を開始したが、意外に時間を要し、登攀完了の約40m下の地点にて日没となった。なお、この頃から天候悪化して降雪となった。三名はツェルト(羽二重製の袋)を被って狭い氷の棚で夜を明かした。翌二日午前7時半、はなはだ元気に再び登攀を開始、石原は図の割目を登っての突き出した岩にザイルをかけ、その往復二本のザイルを握って突起の上に出んと三回試みたが、ザイルが握る指の中でずるずる滑るのと、力不足とで成功せず、ザイルにつかまったまま棚に下り、先頭を若山と交代した。若山は(石原とザイルを結ぶ順序を交代した後)直接に登らず右手の壁に取り付いた。この時の状態は石原の記憶によれば図の様であった。(石原は自分もその前に登っており、且つ確保すべき先登者を注意深く注視していたので、誤りはほとんどないと言っている)その時、若山は「アッ」と言って左足を滑らし、矢印の方向に時計の振り子のように落ち、ザイル切断し、石原の腿に当たって瞬時にして見えなくなった。この時ザイルを握って若山を確保していた石原にはショックはほとんどなかった)
3. ザイル切断に関する考察
 以下述べることはザイルが初めて使用する新品であったことと、登攀者の証言とによりザイルには予め損傷がなかったものとして論を進めるのであるがザイル切断の理由としてこの場合考えられるのは
(1) 保証付きとして渡されたザイルがT製鋼の提示したデータだけの性能を持っていなかったか、あるいは製品が均一でなかったのではないか。
(2) 従来、ザイルのデータは抗張力と伸び、即ち衝撃に耐える力に関する部分のみしか提示されていないが、実際の登山綱として考えるとき、これだけのデータでは不備であって、その他に重要な要素が忘れられているのではないだろうか。
 次に私たちの使ったザイルがT製鋼の提示するデータ通りの性能を持っていた場合においても
(イ) ザイルの支点となった部分の岩の状態が刃のようではなかった場合換言すれば、支点がザイルに楔の作用をしなかったものと仮定した場合において、確保者(石原)への衝撃がなかったことは、ザイルと岩の接触摩擦が大きくなっていて、確保は直接確保の場合と同様な結果になっていたと考えられてよいことになる。この場合、ザイルに加わる張力を計算すると、人体の衝撃作用を無視した場合でも最大抗張力の半分以下となる。(その計算は略す)実際にはわずか50cmの落下のため、人体自身の衝撃作用も影響を無視できない。即ちザイルの切断に関しさらに、より安全な状態にあったと考えられる。即ち、この場合メーカーのデータ通りのザイルであったとすれば、切断しなかったはずである。
(ロ) 楔の作用が働いた場合
 楔の状態によっては如何に協力、優秀なザイルでも切断することは有り得る。
 故に右の考察によってザイル切断の最も妥当な理由と考えられるのは、一応後者(ロ)の場合のみであるので、これについて考察をすすめる。
 (ロ)の場合を推定することが困難な理由に次のものがある。
(1) 従来の経験によれば前記の程度の滑落は普通によくあることである。岩角にザイルをかけて行う懸垂下降中でもこの程度の落下の衝撃はよく起きている筈である。この事件の場合は落下と言うよりもむしろ振り子の状態で、ずり落ちたという感じである。(石原証言)
 しかして従来のマニラ麻ザイルでは、この様な状態でのザイルの切断は全く聞かない。このことは、偶然にかけた岩角がこの程度の滑落でザイルを切断する程、鋭い刃の状態であったこととなる。即ち、過去何十年間にもなかったような全く珍しいケ-スであったと言うことになる。
(2) 旧年28日に発生した東雲山渓会の明神五峰東壁でのザイルの切断事故は、聞くところによれば次のようである。ナイロン11mm白色(従って、私たちの場合はオレンジ着色が切断の原因であったとは考えられない)去る3月に購入、第3回目の使用であった。滑落は約3mの水平横断時に起き、岩角の支点で振られ、この時確保者には全くショックはなく、ザイル切断せる由である。 
 この場合は、ザイルに加わった張力はザイルの最大抗張力より遥かに低い所にあったことは確かであり(計算は略す) もしザイルにデータ通りの強さがあったとすれば、私たちの場合と同様にザイルと接触した岩角が、過去何十年にもなかったような珍しく鋭い刃の状態であったと考えざるを得ないことになる。
 即ち、このような珍しい確率に基づきザイル切断事故が東雲山渓会と私たちの場合とわずか6日間の間に二件も発生した訳である。
 この事件に対し「そういうこともあり得ることである。単に確率の問題だからもう次には起きないであろう」としてザイルそのものへの不安を抱かずに済ませるのは、こと生命に関することであるだけに余りにも冒険と言わねばならないと思う。即ち(ロ)を肯定し、これを滅多に起こらない世にも珍しい確率(椿事)であったとして片付ける前に、更に深く考えてみる必要があるのではないだろうか。
 これについて私としては次の二つのSuggestionを提唱する。
1. メ-カ-の不誠意
 一流メーカーの製品中にも誠意のない粗雑な品物が混入することを度々経験する。今冬の場合のみに例をとってもTレイヨン製の布地の手袋は恐らく永久使用に耐える強さを有するだろうとの宣伝であったが、事実は数時間の連続使用において布地の縦糸がブツブツに切れて全く使用をなさなかった。また、氷雪用に靴底に取り付ける8本爪のカンジキも一流メーカーのK製のものが、普通の使用状態において4カ所も折れ、欠損している。
 これらのことから考えて、或いは私たちの使ったザイルは保証付きにもかかわらず粗悪品ではなかったかと一抹の不安を抱かざるを得ないように思う。
2. 緊張したザイルが鋭い岩角に押し付けられた場合はザイルは切断する。岩を登る場合になるべくそういうことのないようにしなければならないが、この状態から全く避けるということは不可能である。従って、そう言う状態でもザイルがある程度の強さを持つということは登山綱として欠くべからざる条件である。
 ところが、従来こういう場合の科学的テストが行なわれていないように思われる。ただ漠然と、引っ張り試験に強いザイルはそう言う場合にも強いと考えていたようであり、少なくとも私たちの場合はそうであった。
 併し、今回の事件によりその事に大きな疑問を持つにいたった。即ち、ナイロンは抗張力で麻より大でも岩角での楔の作用には麻よりはるかに小さくはないかと言うことである。
 素人考えではあるが、柔らかいものは硬いものよりも刃に対して弱いように思う。(従来、柔らかいセキハタスが、ゴワゴワのア-サ-ビルよりよく切れていると言うことがあるいはこの点につながっているのではないだろうか。勿論ここまで推測することは無理であるが)この裏付けになると思われることに下記の事実がある。
(1) 岩の上で、ずらせたり(ずらさないように注意しても実際にはずらさなければ確保は不可能である) することにより、ザイル表面のけば立ちが著しい。よく見ると綱の表面のナイロン繊維が切れたり、或いは抉れたりしている。
(2) 刃物で切ってみたが実に脆くあっけなく切断された。(帰途、沢渡で10回以上今度のザイルを切ってみた)
 以上、考察の大要を終わるが、第一の理由が正しかったとすれば、これは由々しき問題であると思うが、私はそこまで考えたくない。しかしながら、欧米の登山界では一応ことなく使用されているように考えられる点を鑑みると(私は調査不十分でこういう資料は全くないが) 或いはこの悲しいことが事実となるかも知れない。
 次に第二の理由が今後に残された問題になるのではないかと愚考する。即ち、従来はザイルに要求されるデ-タとしては、抗張力、伸びが主であった様に思うが、従来はザイルと言えばほとんどが麻のみであり、問題にならなかったのではなかろうか。しかし、今度はザイルを多種の角度を持つ刃の上にのせての抗張力テスト、伸びテスト等を行うことではないかと考える。少なくともナイロンと麻とのこうした比較テストは是非とも必要と考える。(私も早急に実験するつもりでいる)
 ナイロンが高価であるから強かろうとか、ヒマラヤで使われたから大丈夫であろうということは当たらない。ヒマラヤで果たしてナイロン・ザイルが岩の刃の試練を受けたであろうか。(なお、今回の場合ザイルは全く柔軟であって凍結していたということはない。登攀者並びに救出隊の言)
 (結論)
 従来の麻ザイルの常識をもってすれば全く考えられない様な事件がナイロン・ザイルの場合に相次いで二件も起きたということ、そのこと自体がその二件の科学的な究明と理論的な検討がなされるまでは、ナイロンザイルの使用を中止すべきであるとする理由になると考える。
 そして、一日も早く安心して使えるようになりたいと念願するのである。なお、ナイロンが岩角に対して弱いという結果になった場合、氷雪ならば安心かと言えば必ずしもそうでなく、氷雪上の横断でスリップした場合、突出していた岩角に触れることは充分考えられることであると思う。
 要するに山には岩があり、岩角は稜角の角度如何に拘わらず稜線は鋭いと考えてよい。
 岩角に弱い登山綱というものは安心して使えないと思う。

 この報告書は、下書きと、鈴鹿に帰ってからガリ版刷りで印刷した物と、『ナイロン・ザイル事件』に掲載された物の三種がある。
 父は、掲載するような文章や手紙などを書く場合、必ず走り書きで下書きをして、それを清書し推敲した。忙しい場合は、清書をしてもらって、それを推敲した。上の報告書の場合は國利氏に清書していただいた。お読みいただけるように國利氏の清書した物は、未発表の下書きであるが、転記した物は、ガリ版印刷された物である。ついでなので記すが、父は例えば雑誌などに載ってしまった文章でも、それを推敲したり直したりの書き込みを入れた。これまでに掲載した雑誌などの中に、その部分を発見されることがしばしばあったと思う。
 さて、話を元に戻すが、上記の報告書は、11日と12日に二回連続で中日新聞に「二つの遭難とナイロンザイル 上・下」として掲載された。上の新聞がそれである。「切れないはずの条件」が上で、「科学的究明が必要」が下である。クリックしてくださればお読みいただける。

 父が帰宅して、届いていた葉書に、ナイロンザイルを薦めた熊澤氏からのものがあった。熊澤氏は、同じ8日付で國利氏にも葉書を出している。内容は五朗叔父遭難死のお悔やみと、ナイロンザイルが切れて驚いている旨、國利氏にはそれに加えて、その原因を調べるための質問事項であった。國利氏に届いた葉書を転記する。
 尚、この頃から父は、ナイロンザイル事件に関連する書簡は全て手元に集めて資料としたので現在まで残っている。

拝啓 今度の遭難にて若山君の死を深く深く惜しむ者でございます。幸い生存されし貴君の努力の一方ならなかったことを思い致しています。つきましてはナイロンザイルの切断原因を知りたく存じますがお返事いただきたく存じます。未だ御心痛、御疲労のほどと思いますがお願い申します。
 若山君と確保点までのザイルの伸び(支点)…支点(確保点)がカラビナか?岩角か?墜落地点の傾斜の角度が何度か?垂直…オ-バ-ハングか?
尚その他御気付きの点がありましたならば御願い申します。
 私はナイロンザイルとは強いと信じていました。こんな遭難を知るに及んで考えさせられます。お願い申します。
 若山君の今後の捜索に当たって私も手伝わせていただきます。ご報せ下されば幸いと存じます。 お願いまで。

 また、凍傷の手当てをしてくださった岩瀬氏(名古屋大学医学部)から12日付で、澤田氏に宛てた手紙も届いた。岩瀬氏は前に中京山岳会に所属されていたことがあり、熊澤氏とは知り合いであったので、澤田氏を紹介してもらえるよう依頼の手紙があり、その中に別紙で「お尋ね事項」が入っていて、それを澤田氏にできるだけ詳しく答えていただきたいとのことだった。その別紙に書かれていたことを転記する。

 お尋ね事項
(1) 前日(1日)の行動中にザイルを濡らしていたかどうか。
(2) ビバ-クの夜はザイルを尻の下敷きに利用して濡らしはしなかったか。
(3) ビバ-クの夜ザイルを岩に(確保用)つけたまま利用したとすれば、ザイル損傷の懸念は有ったか。
(4) 遭難当時の気温はどの位であったか。アイゼンの歯が折れる位だったか。
(5) 若山君のザイルの結び方法は。
(6) 若山君のザイル結びは行動寸前か。前日のままか。
(7) ザイルの固さはワイヤ-ロ-プのようだったか。
(8) 表面に氷がつるつるに付いていたか。

 この後16日には、鈴鹿の中勢病院に入院中の國利氏と澤田氏のもとに熊澤氏が訪れ以下のようなことを話している。病室には石原、澤田両氏の他に岩稜会員の伊藤氏・室氏・松田氏とその他3~4名がいた。
 この時のことは『ナイロン・ザイル事件』に会話の要旨として書かれている。日付が前後するが以下に転記する。

 熊澤「先ず、私の販売したナイロン・ザイルが元で若山さんの命を失ったことに対して何とお詫びして良いか判らない。ザイルが切れたとの事だが、私もナイロン・ザイルを絶対に強いと思っていたので全く意外に思っている。
 所でナイロン・ザイルは結び目が非常に解け易いが、一体どんな結び方をしたのか。解けてしまったのではないか。」
 石原「解けたのではない、切れたのだ。はっきりと切れ口も残っている。」
 熊澤「私達がオカンをする場合は、寒気を防ぐためにザイルを尻に敷くが、あなた達の場合はどうだったか。」
 石原「尻に敷いていた。」
 熊澤「尻に敷いていたとすると、当時の気温から推察してザイルは凍結していたと考えられるがどうか。」
 石原「凍結などしていない。普通の状態と少しも変わった点はなかった。」
 熊澤「いや凍結していないように見えても実は凍っているのだ。タオルを凍らしていて折るとボキンと折れてしまうが、実は私もナイロン・ザイルを水につけて一晩戸外にさらしてみた所、よく見ると繊維の間の水が確かに凍っていた。まして穂高の場合は凍っていたのではないかと思う。」
 石原「我々がナイロンザイルを購入する際に、ザイルがガリガリの状態に凍結した場合には保証の限りではないとは聞いていたのだが、切断の際の状態は、決してそんなガリガリの状態ではなかった。下界で扱った時と同様の状態だった。第一そんな状態で使う筈がない。」
 熊澤「いや、それでもよく見ると凍っているよ。」
 石原「それではガリガリの状態とは言えないではないか。私達は今度の遭難の直接の原因はナイロンザイルの欠陥によるものだと思っている。ナイロンザイルは岩角に対して弱いのではないか。」
 熊澤「そうかも知れない。考えてみると従来のアーサービルの如きゴワゴワした麻ザイルは、岩角などに対しては強かった。その点ナイロンザイルは柔らかいのだから弱いのだろう。
 大根は大根で、幾ら太くても引張りには強いかも知れないが、切れば簡単に切れるものである。」
 石原「そんな言葉をあなたから聞くとは心外だ。一体東京製綱では、今度のザイルを新製品として出す前に、それが一命を托するに足る登山綱としての性能を有するかということをテストしていたのか。単に引張り試験だけでなく、ザイルとして売る以上は、当然岩角に対する試験もすべきだし、私は当然あらゆる面からテスト済みと信じていた。その点どうなのか。」
 熊澤「私も単に引張り試験だけでなく、そういった岩角のテストも必要だということに気が付いた。しかしそういったことは、ちょっとうっかりしていて気が付かないものだ。」
 石原「しかし登山綱として使う以上、そういったことは当然気がつくべきではなかろうか。
 そしてあらゆる点のテストがあって初めて、登山綱といえるのではないだろうか。今度のナイロンザイルの場合でも、買う前にあなたからそれが今までの麻ザイルより弱い点があるとは聞かなかったし、むしろあらゆる点で強いと強調されたのではなかったか。
 だから私としても、今までの麻ザイルで切れないところでは当然切れないものと信じていた。新製品が今までのものに比して少しでも弱いところがあれば、それは業者の責任において前もってはっきりさせておくべきではなかろうか。とにかくこのままでは次々と遭難を起こす恐れがあると思う。」
 熊澤「私も今まではナイロン・ザイルはあらゆる点で優れていると思い込んでいた。しかし今度の事故で、ザイルに対してあらゆる面から再検討する必要があるということに気が付いた。今後こういった面からもテストする様に、私からも東京製綱に申し入れる。」
 石原「今からでは遅すぎるのですよ。その点に前もって気がつくのが不可抗力だというのならいざしらず、ザイルが岩角に対してもある程度の強さを必要とするのは当然のことではないか。さらに新製品たる以上は、少なくとも従来のザイルとのこういった面の比較試験がなされるべきだったのだ。私達も、当然そういったテストがなされていたと信じていた。
 いちいち犠牲者が出て初めて欠陥に気がつくというのでは、それでは死んだ者や遺族の方は、どうなるというのか。いったい何のための保証付きだというのだろうか。」
 熊澤「そう言われてみると申し訳ないという以外にない。しかし私は石岡さんにあのザイルを買ってくれとは言わなかったのだがね…」
 伊藤「今度の場合は明らかに東京製綱のザイルに対する検証の怠慢に基づくものと信ずる。
 この二人を見舞っていただくのも有難いが、それよりも若山の遺族の方に一刻も早く陳謝の意を表してもらいたい。」
 熊澤「それはなかなか出来ないことだ。たとえ個人としては申し訳ないことをしたと思っていても、これが社会の意見を代表するとなると、そう簡単にはゆかないものだ。会社も役所と同じで、個人的に遺憾の意を表したことが会社の立場を代表した意味にとられると、後で自分の責任問題となるからだ。」

 熊澤氏の態度は、父たちを憤慨させた。「ザイルの扱いに間違いや誤りなどの不注意があったのではないか」と言外に言っているようなものであったからである。熊澤氏は、ザイルを販売した立場で、ザイル切断の原因を登山者サイドのミスとして解決しようとする意図がみえる。

 父が木村小屋で書いた報告書を報道機関に渡してから、事件の重要性に気付いたマスメディアは、ナイロンザイルの欠陥について述べ始めた。
 14日の深夜1時に朝日新聞の記者が、家の玄関を激しくたたいた。15日付の朝日新聞の取材のためであった。そして「今日の問題」の掲載となった。以下、全文転記する。

 切れたザイル
 北アルプス前穂高で大学生が3名遭難し、一人は絶壁から墜落して死亡、二人は猛吹雪の中から救い出された。その体験談が本紙三重版に載っている。
 3人が一組となり、直径8mmの強力ナイロン・ザイル(綱)で体をしばり、東壁にとりついたが、頂上から40mの所で、一人が足を滑らせたとたんにザイルが切れ、暗い谷へ落ちていったというのである。
 そこで問題は、このザイルということになる。何メ-トルも落ち、その勢いで切れたというのならまだしも、50cmばかりずり落ちたときに、あっ気なく切れたという。
強力ナイロンどころか、ワラ縄よりも弱いザイルである。いずれそれと同じザイルを持って山に登っている者が、ほかにも多いに違いない。そんなものに一命を託しているとは、なんと危険なことではないか。ザイルは、製造会社の保証ずみのものだそうだが、いったい何を保証したのか、徹底的に究明する必要がある。
 ザイルに限らず、保証ずみというやつが、一向にあてにならない。日常家庭で使う電気器具の例をとってみても、検査ずみのしるしはついているが、すぐいたんだり、使いものにならなくなるのが多い。検の証明をつける以上は、その責任をはっきり持たねばならぬ。


 この短いが的を得た報道は、父に勇気を与えた。

 16日には、岩稜会の臨時総会が行われ、今後の遺体捜索の件や、岩稜会の方針などが話し合われた。
 左の資料は1月2日から9日までの「遭難救助特別会計計算書」である。総会の時に報告され、精算された。遭難がいかに非生産的なものであるかお判りいただけると思うので掲載する。
 尚、当時は鈴鹿-名古屋間の近鉄電車の運賃が110円であった。現在は820円である。それを目安にして見ていただきたい。クリックしていただければ、全文ご覧いただける。

 
 お七夜の五朗伯父と英太伯父

テント地にて

三重大山岳部時代
愛知川にて、右端五朗伯父
 ここで、亡くなった五朗叔父について記しておきたい。
 五朗叔父は昭和10年7月13日に、愛知県愛西市見越町で若山繁二、照尾の5男として生まれた。祖父53歳、祖母37歳の時の子であったため、4男の英太叔父とも9歳も離れており、家族からとても可愛がられて育った。母は、五朗叔父が生まれた時にはもう父と許婚関係であったため、よく遊んであげたと言う。
 五朗叔父が小学校に入ってからは、上の兄たちと共に山について行くようになっていた。
 屏風岩初登攀を狙っていた昭和21年8月23日には、横尾岩小舎に陣取っていた父たちのところへ、英太叔父と共に徳本峠を越してやって来た。翌日午後、屏風岩横断ル-トの偵察のため第二ルンゼに出かける父たちに、叔父たちも後からついて来た。第一ルンゼに続く押出しを登りながら、父がふと振り向くと、五朗叔父は裸足であった。「運動靴はどうしたのだ」と父が聞くと「岩小舎に忘れて来た」と五朗叔父は頭をかく。取りに帰るのも面倒なので、そのまま登って行く。第一ルンゼの取付きで、父たちがザイルを結ぼうとしていると、五朗叔父はルンゼの裾の急峻な岩壁を、素足でグングン登って行く。父はザイルを放り出して追いかけ、引き下ろすと「五朗を絶対に登らせるな」と英太叔父に厳命した。父たちは第一ルンゼを三分の一ほど登った地点から横断ル-トへ移り、目もくらむようなはるか下の第一ルンゼの押出しに、叔父たちが下りて行くのが見えた。「ヤッホ-」を叫ぶと、五朗叔父の可愛い「ヤッホ-」が返ってきたという。その頃から五朗叔父はもう岩登りに秀でていたようだ。
 津島高校に入った五朗叔父は、山岳部に所属し、校庭の大きな松の木にザイルをかけて登攀の練習をしていたという。
 前述のように三重大学でも山岳部に所属した。















 ナイロンザイルが切断して墜落死した1月、津市にある三重大学の正門近くにあった五朗叔父の下宿に父は訪れ、机だとか布団だとか山の本とか…五朗叔父の遺品を整理したのであった。
 


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2015年5月6日追記